hanaayame19
椿説 花あやめ
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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十九 将よりも馬を射よ
草村夫人に引き続いて、馬車の中からドヤドヤと一群の女隊が降りた。此の中には松子も梅子も居る。
出迎える葉井田夫人に取っては、容易ならない大役である。その身の前に立つ草村夫人の、華美(はで)な服装を見る丈で、早や驚いた。
その身と言えども、昔は多少社交界に立ち交じった事も有る。その頃は五十にもなった老婦人が、こう華美(はで)には着飾らなかった。尤(もっと)も草村夫人は仲々五十には見えない。殆ど四十にも見えない程である。
それにしても、夫を失った人と有っては、猶更(なおさら)衣服の色合いなどをも、控えめにするのが常で有ったのに、今ではこうも風儀が変わったのだろうか。そうだとすれば、此の身の為す事が、若し草村夫人の目に可笑しく見え、笑われはしないだろうか。
こう思うと何だか草村夫人が、恐ろしい様な気もする。
併し草村夫人は、恐れられる暇を与えない。直ぐに打ち解けた口を開いて、
『貴女が葉井田夫人ですね。私は草村夫人です。』
と云って、未だ此方の方が好くは出しもしない手を取って握った。
そうして直ぐに背後を顧み、
『オオ松子、早くお出で。』
と呼び立てるのは、何うしても梅子より、我が娘を先に立てなければならないと、決心て居る様にも見える、兎に角も、その仕草が目まぐるしい程である。
此の様子で見ると、此の夫人は早や凡その秘密を嚊(か)ぎ知り、自分の娘を、大変な競争場へ立たせた者と、思って居るらしい。呼ぶ声に応じて、直ぐに葉井田夫人の前へ、品格の備わった真に女王の様な令嬢が現われて、
『私は松子です。』
と名乗った。成るほど子爵が、又と無い女の様に褒めたのも、無理は無い。母親とは大違いだ、と感心する目の先へ、直ぐに又馳せ上がって来た女は、松子より成るほど一つ年下かと思われるが、身体の発達して居る様子は、大して違いが無い。
松子は品が有るとすれば、此方には天然の優美がある。而(しか)も、此方は顔に真心が輝いて、腹の底まで透き通る様である。一目見た丈で、可愛く思わずに居られないのは、此の様な質(たち)である。
それに仕草も言い草も子供らしい所が見えて、飾り気が無い。
『貴方が葉井田夫人でしょう。子爵に伺って私が思って居た通りです。ハイ私しは梅子です。』
人懐かしそうに云う言葉で、久しくは、人の愛に餓えて居る事も分かる。
夫人は今と云う今、子爵の言葉に思い当たった。何うして此の二人に、優劣を附ける事が出来る者か。
我が子贔屓の草村夫人さえも、梅子の美しさには感心せずには居られない。確かにここに松子に取って、侮り難い敵が居るワいと見て取り、少し鼻先を挫(くじ)いて置く積りか、
『貴女は侍女ををお連れ成さらないのですねえ。』
我が娘とは、少し身分がが違うと云ふ様に、仄(ほの)めかせたけれど、梅子は言葉の底に潜んで居る、巧みな意味を察するほど、世慣れて居ない。唯だ、
『ハイ』
と答えたが、葉井田夫人の方が、何だか気の毒な様に感じ、
『ナニ侍女は無くても不自由の無い様に、子爵のお心付けが届いて居ます。』
と云った。
草村夫人『オオそうでしょうとも、私共の松子は、巴里から侍女が附いて居ます。それでも子爵の御注意は、梅子さんと同じほど有難くお受けします。』
云う事が何だか、研き立ててある様に聞こえる。取り分け巴里から来た侍女と云えば、非常な贅沢を示す者では有るが、その実、此の家へ来るに附き、急に雇い入れたので、贅沢のホヤホヤとも云うべきだ。
『サア何うか此方へ、先ず。』
と葉井田夫人は道を開き、そうして、
『一先ずそれぞれのお居間へご案内致しましょう。』
と言い足した。
草村夫人『ハイ随分汽車で疲れも致しましたから、居間でお茶でも頂きまして、又その上で緩々(ゆるゆる)お話なども致しましょう。』
全く此の様な待遇を、受け慣れて居ると云う風で、別に気兼ねの様子を見せない。けれどその実、仲々落ち着きも出来ないだろう。眼は此の家の立派な有様と、葉井田夫人と、松子と梅子とへ、油断なく配って居るが、その中でも、最も気になるのは、若しも梅子の手を葉井田夫人に引かせるのは不利益だと云う一事らしい。
直ぐに自ら梅子の傍に寄り、
『貴女とレイトンの停車場から一緒に成りましたねえ、汽車の中でお近付きに成りまして、何んなに好かったでしょう。』
と云いながら、自分でその手を取り、葉井田夫人をば、松子と並ぶ外は無い様に仕向けてしまった。
梅子は唯だ之を親切の様に感じ、
『貴女の様な阿母様を持つ松子さんが、お羨ましいと思います。』
親切は親切でも、狼の様な親切だとは知らない。
このようにして、大廊下を進み、二階の上がり口まで来ると、蔵戸家が、何れほど貴い家かと云う事が分かる。大理石の階段が殆ど国道の様な広さで、顔が写るかと思われるほど輝いて居る。
之に対して巴里の侍女を、一人や半屑(はんかけ)連れて来たからと云って、何で贅沢に見える者か。草村夫人は幾等自分の背丈を引き延ばし引き延ばししても、自分の身が小さくなってしまう様な感じがして、それと共に、もう何うあっても、此の立派な家から立ち去っては成らないと云う様な決心も湧いて来る。
ここまで来て、葉井田夫人は立ち留まり、梅子の後に従って居る老女に向かい、
『和女(そなた)が、二人の嬢様をお居間へ御案内してお呉れ。私が草村夫人の御案内をするから。』
と云って、夫人と梅子とを引き分け、そうして自分も松子を離れた。夫人は思った、
『アア此の競争に勝ちを占めるには、葉井田夫人を取り込まなければいけない。何も彼も、此の夫人の心で決するのだ。』
大将を捕えるには、先ず馬を射よとの軍略である。そう容易に射られるか、何うだろう。
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