巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳
   
   第五十二回 伊蘇普(イソフ)の思い
 
 話しは替る。銀行頭取上田栄三の家はそうでなくても非常に陰気な住居(すまい)であるのに、柳條健児が拘引されて以来は火の消えた様に物淋しい。主人(あるじ)栄三は、馬平侯爵に大金を返さなくてはならないその期限の日が迫るのに心を痛め、更には柳條拘引の一条を嬢に知らせて、徒に心配させるよりは隠せる丈隠すのが最善と、唯我が心に畳んだまま露ほども口には出さず、問われれば少し用事があって何処かへ行ったと答えるだけだった。

 しかしながら瀬浪嬢は恋人同士の感じ易い神経で、何事か柳條の身に降り来たったのに相違ないと、早くも察して思いを悩まし、独り一室に閉籠り、涙に暮れるばかりであったが、翌日は耐え兼ねて、例(いつも)の様に教会に詣でると言って、家を出て直ぐに町川友介の許に行き、仔細を問うと、友介は生なかな隠し立てをするよりは、真実を打ち明けて聞かせるのが一番と、彼の馬平侯爵が馬から落ち、怪我をした事から、柳條が之を救い、国事探偵と同じ馬車に乗ったこと。その探偵が馭者から決闘の事を聞き出し、柳條を拘引させた事まで、詳しく語ったので嬢は唯だ、

 「多分その様な事だろうと思っていました。」
と云いつつ、一滴の涙を溢(こぼ)し、そのまま分かれ帰ろうとするので、町川は哀れを催し、我が力の及ぶだけは柳條を牢屋から救い出す事を計るので、空しく愁いに沈まない様にと懇(ねんご)ろに慰めた末、先頃から我が店に使っている、彼の乞食の児伊蘇普(イソップ)を嬢に附け、その家まで送らせた。

 嬢と伊蘇普とは誠に不思議な間柄で、嬢は彼の頼りない身を哀れみ、それに我が為に危険を冒して、柳條を助けようとした子供心の健気さを愛し、伊蘇普は又嬢の為に空腹(ひもじ)い目を見ず、安楽に身を送る事となったその恩を深く感じ、嬢の為には何事をも厭(いと)わないと思っているのだ。

 姉弟の親しい中にも優り、主人と家来の忠愛なる交わりよりもっと深い。だから嬢は我が家に帰ってから、彼を独り返すのに忍びず、
 「お前は二、三日私の傍に居てお呉れ。」
と云うと、
 「ハイ是から主人にそう申して断って参りましょう。」
と答えた。この様にして一旦帰り去ったが、一時間と経たないうちに、町川の許しを得て引き返して来たので、嬢は彼を我が傍に置き、宛も猫を愛する様に身の廻りに近づけて、悲しみも之に聞かせ喜びも之に語る。

 彼も又主人の心を以って己の心とし、嬢が悲しめば己が先ず涙を流し、嬢が喜べば己が先ず顔を柔(和)らげた。だから嬢は益々彼を慈しみ、彼に向かって我が悲しみを語って、せめてもの鬱(う)さ晴らしとし、我が父に打ち明けない事までも彼に聞かせたので、彼れはその情に動かされてか、翌朝は何事か独り思案し、
 「嬢様私に一時間ほどお暇を下さい。」
と言い出した。

 「一時間の暇は遣るが何をするのだ。」
と問うと、
 「主人の家まで一寸行って参ります。」
と答えた。
 「主人の家へ行くのは好いが、お前が居なけりゃ私は淋しくてならないから、早く帰って来てお呉れよ。」

 伊蘇普「ハイ」
と答えて伊蘇普は此の家を立去ったが、主人の家の方へは向かわずに、貴族が住んでいるワーレン街の方角へ歩んで行った。彼れは何所に行こうとするのだろう。噫(ああ)伊蘇普は子供ながらも嬢の心を察し、柳條を救おうと思ったのだ。彼れは嬢から柳條が馬平侯爵を助けた事を聞いた。侯爵とは非常に貴(とうと)い方にして、その人の言葉ならば、如何なる事でも叶うに違いないと思ったので、之れに頼んで柳條を救って貰おうとの心である。

 何の様にして侯爵に面会を求めたら好いだろう。何の様にして我が願いを言い出したら好いだろうか。それ等の事は知る由もなく、固(もと)より侯爵が、柳條と恨み深い恋の敵だとは夢にも思わない。唯熱心の一筋で傍目(わきめ)も振らず進み行くのみ。進み進んでやがてワーレン街に着いた。

 馬平侯爵の住居は立ち並ぶ屋敷の中でも特に高大で厳めしく、古(いにし)えの絵などに見る王城かとも疑われるばかりで、身姿(みなり)賤しい伊蘇普が、入って行くことが出来るとは思えないけれど、伊蘇普は唯だ瀬浪嬢の悲しみを慰めようと思う一心で、一足一足その門前に近寄った。

 但見(とみ)ると、門から五、六間(9から11m)離れた所に、伊蘇普の目を驚かす者があった。それは外でもない、その所に佇立(たたず)んでいる二人の人の姿であった。一人は年の頃瀬浪嬢に似か寄った女で、顔容(かおかたち)も先ず美しく、身姿(みなり)も可なりに立派である。一人は四十余りの男、身に黒い礼服を着けていたが、日頃紳士の行動に慣れないと見え、礼服は更に着慣れず、伊蘇普の目にさえも、下等の探偵が初めて紳士に化けたのではないかと疑われるほどだ。

 此の二人は何事を為そうとするのかは知らないが、女は頻(しき)りに男を説き、男は無理に女を押し留めようとして居る様子だ。女は何処かの令嬢だろうとは見受けられるけれど、その顔は今見るのが初めてである。男は是れ何者だろう。伊蘇普は十間ばかり離れた辺からその顔を倩倩(つくづく)見て、打ち驚いた。

 此の男は是れ擬(まが)うべくもなく、先に伊蘇普が嬢と共に柳條を救おうとして、エンファ街に行き、高い塀のある家の入口を叩いた時、戸の内から腕を延し、伊蘇普を軽々と家の内へ掴み入れ、穴倉に押し入れた男である。是こそは栗山角三の下僕杢助である。

 その名は知らないが、顔はまだ伊蘇普の目に歴々(くっきり)と見覚えがある。伊蘇普は恐ろしさに震い上がったが、その熱心はまだ消えない。此の二人は何の為に此処に来て、何故にこの様に争っているのだろう。その仔細を知りたいものと、宛も落とし物を探す振りをして、顔を垂れてウロウロと大地を見廻しながら二人の方へ進み寄ると、二人は唯だ乞食の児が何かを探して居るのだろうと思って居る様で、少しも気に留めない様子である。

 この様にして伊蘇普は易々と二人の声が聞こえる辺(ほとり)まで進み寄ったので、ここで塀と塀との隙間に身を寄せて、露地の中を覗くと見せ掛け、耳を澄まして二人の押し問答を聞いて居た。男は即ち杢助(もくすけ)で女は角三の娘澤子であるのに間違い無い。二人は何の為めここに来たのか、怪しいとしか言いようが無い。


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