巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.5

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             三

 「イエもし貴方」
呼び止めるイリーン嬢の声に応じ、紳士は振り向いて再び帽子を脱ぎ、
 「何か御用ですか。」
と言いながら寄って来た。
 嬢は背水の陣を布いたとも言うような、最早逡巡(しりご)み出来ない場合と為ったので、顔が燃えるほどの恥ずかしさを思い切り、
 「今仰(おっしゃ)った品物は私が拾いました。」

 紳士も寧ろ極まり悪そうに、いや寧(むし)ろ気の毒そうに、
「え、貴方が」
「ハイ、今に遺失(なく)した人が尋ねて来るだろうと思い、この通り持っています。」
と言い、衣嚢(かくし)の裡(うち)から取り出して差し出した。
 唯この通り持っているだけでは無い。今迄つくずくと眺めていた事を紳士は知っているのやら知らないのやら。
 非常に嬉しそうに顔一面晴れ渡り、

 「イヤ、貴方の衣嚢(かくし)に納められていると知れば尋ねては来ない所でした。写真だけでもお手に触れれば身に余る果報です。」
と様子有りそうな言葉を聞き、嬢は益々極まり悪く、返事する声も出ない。
 紳士は猶(なお)も言い続け、
 「イヤ尋ねて来たからこそ、斯(こ)うして貴方の言葉を聞くことも出来るという者、この毀(こわ)れた写真入れが猶更(なおさら)私の身に貴重な品と為りました。」
と言い、穏やかに嬢の手から受け取って、

 「ナニご覧の通り尋ねて来るほどの品では有りませんが、実は先年亡くなった、母の写真と双合(もあい)に組み合わせた片側ですから、それを惜しいと思ったのです。」
 さてはこの人も我が身と同じく母を失う不孝を経た身の上なのかと、嬢の心には又一倍の同情を起こした。

 「実は昨朝、狩に出る時、その双合(もあい)の蝶番(ちょうつがい)が外れたのか、私の分だけ落ちましたが、急ぐ折だったので直している暇も無く、その儘(まま)燐寸箱(まっちばこ)などと共に衣嚢(かくし)の中へ攫(さら)え込んだのです。そうしてここまで来て友人を待ち合わす為め、暫(しば)らくこの柳の木の下で休み、燐寸箱を取り出して煙草など吸いましたから、多分その時にここへ落としたのだと思い、夕べ帰り道にもこの辺りを探しましたが、日が暮れて後の事なので確(しか)とは分からず今日又探しに来たのです。」
と言いつつ一方の衣嚢(かくし)から、同じ写真入れの片割れを取り出し、手先で継ぎ合わせて見せたのは、それと無く、自分が全くこの品の持ち主であることを示す為に違いない。

 嬢は初めから恥ずかしさに眼を垂れ、殆どこの人の顔を見上げることが出来ないほどだが、目に見ぬものも心には良く見えるのが愛情の賜(たまもの)と言うべきか、心の底には早やこの人の顔を深く印し、是を今迄の写真と比べて見ると、写真よりは又一入(ひとしお)の活き活きと凛々(りり)しいところがあり、殊(こと)にその声、その言葉は、言うに言われない余韻があって、今迄聞いた人間の声、人間の言葉よりは、遥かに優っていて、天界の音楽ではないかと思われるほで、唯恍惚として夢のような心地がするばかり。
 紳士は双合(もあい)を継ぎ合わせながら、

 「イヤ貴方のお手に拾われたからこそ、斯(こ)うして早速私の手に返ったのです。この御恩はどの様にして返しましょう。」
と独り事のように、又嬢に問い掛ける様に言いつつも、嬢が顔の余りの美しさに、唯「嘆賞措く能はず」と言う様に、嬢の顔を眺めている。
 嬢はその視線の暖かさに我が顔が照らされる思いがして、僅(わず)かにその喉の底で、
 「イイエ、如何致しまして」
と呟(つぶや)くだけ。その声が我が口から外に出て、紳士の耳に達っしたのか否かは知らない。

 紳士はやがてその写真入れを衣嚢(かくし)に納め、
 「イヤ、誠に有難う存じます。いずれお礼には改めてお目に掛かりますから」
と言い、丁寧に一礼して、立ち去ろうとしたが、又忽(たちま)
ちに思い出した様に、
 「オオ、恩人のお名前も伺わず、自分の名さえ名乗らずに去るところでした。」
と言い、名刺入れから、一枚の名刺を取り出して嬢に渡した。

 嬢はこの人の名刺だけでも、渡されるかと思うと、恥ずかしいなかにも何とやら嬉しくも有り。受け取ってその面を見ると、
 「西富郷、子爵西富春人(にしとみはるんど)」
の数文字が記してあった。嬢は我知らず声を発し、
 「貴方がアノ西富子爵」
と口走り、初めて我が端下(はした)ない言葉に気付いたけれど、是だけ言えば何故に、自分がこの名を知っているのかと言う事まで説明せずには置けなくて、
 「父の描いた絵を、何時も賞美して下さると父が度々申しました。」
と補うと、紳士は少し怪しんで、

 「エ、貴方の父君は画家ですか。ハテナ、この辺で画家と言えば有名なる憂鬱、イヤ、ダントン氏の外は知りませんが。」
 嬢は父を有名と言はれる嬉しさに、初めてその首を上げ、
 「ハイ、私はパーシー・ダントンの一女(むすめ)です。」
と答えた。
 紳士は殊(こと)の外驚いて、

 「オヤ、貴方がダントン氏の令嬢ですか。そう聞けば他人の様な気はしません。既に昨年も王国美術館でダントン氏の絵を買って、今も屋敷の居間に掛けて有るほどです。一度はダントン氏に会っても見たいと思っていた故、いずれ改めて尋ねて行きますが、アア成程それで分かりました。貴女も美術家の令嬢だけに、美しい天然の有様を愛し、それでこの川沿いで景色を眺めて居たのですね。」
 さては私がこの人の写真に見とれて居た事は、まだこの人には知られていないにちがいないと、嬢は漸く安心し、

 「ハイ、毎日のようにここへ来て、水や木などを眺めて居ます。」
と答えると、紳士はこの上ない友達を得た様にくつろいで、暫(しば)しこの所に足を留め、風景、絵画、美術などに就き様々の話をして、この日は分かれて立ち去った。

※注;「嘆賞措く能(あた)はず」・・・感心して誉めたたえないわけには行かない。 


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