巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume52

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.22

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               五十二

 イリーンは二人の侍女に守られているけれど、素より介抱を受ける様な病気では無い。我が無慈悲な振る舞いが露見しようとする恐ろしさに、自ら我が心を苦しめるのみ。我が心の苦しみを侍女等に見抜かれることが何より辛い所なので、侍女には最早や心持も直ったので、介護るには及ばないと言い、二人を払い退けて、泣くも笑うも見る人の居ない唯一人になった。

 此の間のイリーンの心配は譬えようもなかった。飼い犬ベドは、果たして人々を春人の倒れて居る所まで案内したのだろうか。春人は今もまだ死に切らず、我が振る舞いを人々に訴えるだけの気力があるのだろうか。
 今は無くても少し元気が回復すれば、彼は第一に我が罪を数え立てるだろう。

 我が身が公爵夫人として温かな寝台に眠るのも、もう今宵限りになるのか。彼が我が身の罪を訴え、其の上で事切れとなる時は、我が身は人殺しの罪人と見なされるだろう。たとえ法廷には引き出され無いまでも、世間の人は皆我が身を非難するだろう。
 我が身が彼を苦しめたのは天の許す復讐であるとは言え、その次第を人に訴え、我が罪を言い開くのは、過ぎし我が闇の恥を白昼に持ち出だすことである。益々我が身を辱めることになる。

 我が身は何と言われようとも無言で、その非難に圧服せられる外は無いのかなど、止めども無く思い廻しているうちに日は空しく暮れ、夜の七時とも思われる頃になって、家内何と無く騒々しくなった。
 密かに窓掛けの片端から窺(うかが)い見ると、数人の人夫が釣り台を担ぎ、台の上に春人を乗せ、たった今我が窓の前を過ぎ、廊下を指して担ぎ込もうとする所だった。

 アア春人は全く人々に見付け出された。彼はまだ活(い)きているのか既に死んだのか、ただ是だけが知りたいと、只管(ひたすら)首ばかり差し延ばすうち、彼は早や廊下から一室へと連れ込まれた様子である。
 今はどうしようもない。度胸を定めて彼の傍に行き、その生死を見届ける以外は無いと、イリーンは又立ち上がって戸の引き手に手を掛けたけれど、是を開く勇気は無い。

 我が身が彼の傍に行き、彼がもし其の目を見開いて、又も、
 「鬼女よ、人殺しよ。」
と呟(つぶや)いたら如何(どう)しよう。其の時こそ我が身は彼を罵(ののし)り懲らす力は無いだろう。アア辛いけれど唯運を天に任せ、成り行きを待つ外は無い。

 そのうちには、誰かが必ず此の家に来るだろう。その人は春人の終に事切れと成った事を知らせる、我が身の救い主か、はたまた我が身が人殺しの罪人として、捕縛の縄を持って来る人に違いない。儘(まま)よ、何もかも其(そ)れまでだと、イリーンは再び寝台に沈み込んだ。

 この様にしている間に春人は如何(どう)なっているのだろう。彼は全く死と生の境に在った。言葉を発する気力も無かったので、未だ夫人の罪を暴き立てるまでには至ら無い。医者も来た。看病婦も来た。妻も来た。知人も来た。其の手当てに余念が無い。

 手当ての為もあってか、凡そ一時間ほども経つに従い、彼の冷え切った体に、幾分か血の温かさを呼び返し、乾いた唇も物言いたそうに動き始めた。
 しかしながら彼はまだ眼さえ開くことが出来ない。其の身が山からこの部屋まで、救って来られた事さえも知らないようだった。
 枕元の人々は熱心に彼の目、彼の唇を眺めて居ると彼は吹き込まれた火酒に漸(ようや)くその咽喉が潤ったか、初めて何やら言葉を発した。

 良く聞くと、
 「夫人ーがー」
と言って居るようだ。
 アア彼この生死の境に在っても、まだイリーンの恨めしさを忘れることが出来ない。何事をも言はない前に夫人の語を口にしている。しかしながら人々はその夫人とはイリーンであるとは思いも附かず、

 「ヤヤ、夫人を呼んでいます。夫人を呼んで居ます。」
 妻李羅子は迫り寄って、涙ながらの声を絞り、
 「ハイ妻は茲(ここ)に居ます。貴方、もう心配なさる事は有りません。お心確かに持ってください。」
 其の声が通じてか、春人は初めて目を開き、唯怪しそうに室(へや)の中を見回すだけ。

 見回すに従って漸(ようや)く我が身が救われたを事を悟ったのか、ヤヤ合点の行った様に、
 「オオ、犬の為に助かったか。」
 「ハイ、犬の為に、貴方の居る所が分りました。」
 李羅子は嬉しさに耐えられないように、青い春人の頬に接吻すると、春人は怪我の次第を語ろうとして、切れ切れに言い出したが、何の意であるか、聞き取ることは出来なかった。
 
 唯、
 「木の枝、引金、動けない、救ってくれない・・・邪慳な」
などの片言を綴るだけ。
 是を聞き公爵を初めとし大佐及びその他の人々、代わる代わる彼の耳に口を寄せ、慰めの言葉を発すると、彼次第に気も確かとなり、
 「オオ、公爵か、・・・オオ、大佐か。」
と一々に受け答えし、人々の言葉を理解したようだった。

 是から医師の療治となり、夜の十時頃まで、様々な手術を施し尽くしたが、生死の程はまだはっきりしない。医者の言葉では傷はそれ程恐れる様な種類では無いので、十分助かる見込みはあるが、唯負傷後一昼夜、何の救いも無く苦しんだ為、非常な疲労の様子である。もし死ぬことがあれば是は傷の為死ぬのではなく、疲労の為に死ぬのだと言った。

 兎に角、此の儘(まま)極静かに休ませ置くのが肝腎であるとの事であったので、看病婦と其の外に、一、二の婦人だけを残し、その外は李羅子までもこの部屋から退き尽くすと、夜の最も静かな十二時も近い思われる頃、春人は目を開き、先程よりはやや確かな言葉で、公爵夫人イリーンを此処へ呼んでくれと言い出した。

 我が妻李羅子を呼べとならば怪しむに足り無いが、公爵夫人をとは何の為だろう。枕元の婦人たちは顔と顔を見合したが、春人は猶(なお)も、
 「イヤ、私は何時死ぬかも知れない、死ぬ前に公爵夫人に言わなければならない事が有る。」
 さては夫人に飼い犬に助けられたその禮でも述べる気なのだろうか。危篤である病人は総て詰まらない事を望むものなのでと、看病婦の一人は其の意に従い、公爵夫人を呼んで来る為、この部屋を出て行った。


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