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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳 トシ口語訳

野の花

           二十八 「又あいつが失策を」

 「散歩」という品子の意見に対し「馬車」という澄子の意見が勝ったと言って何ほどのことでもない。けれど、勝利は勝利である。澄子は深く心が勇んだ。澄子が勇むだけに、品子の方でも、これを敗北と感じ、今にこの敵をと言う色が、顔の面に現れた。わずかこれくらいの事にさえ、一方が喜び、一方が憤るのを見ると、普段の有様が思いやられるではないか。

 澄子はいつも人の家に行くのを、面白く思ったことはないが、この夜だけは気が進んだ。衣服についても、特に人に美しく見られようと思って着たことはないが、この夜ばかりは品子より見劣りのするようなことがあってはならないと、二.三度ほども鏡に向かって見直した。

 気のせいか知らないが冽(たけし)の機嫌も普段より好いように思われ、馬車の中でも澄子は打ちくつろいだように色々な話をした。澄子が自ら談話の中心となることは、これも今までにほとんど例が無い。やがて春海夫人の屋敷に着いた後も、珍しく様子が引き立っていた。

 この夜の相談は劇の選定と、その役の割り振りとが、主な目的で、会する人は、この地の社交の中心とも言われる十余人の顔ぶれであったがいずれも一方ならず、澄子を敬い、何が何でも絶世の美人の役を割り振らなければならないと言い出した。

 夫冽はとても澄子が役に加わることは出来ないだろうと思い、しばしば澄子の顔を盗み見たが、自分から辞退しそうにも見えなかった。そのうち、あれこれと三つ、四つの劇を持ち出したが、いつも品子が難癖を付ける。

 勿論、自分の役不足を嫌うためではあるが、弁舌が巧みなため、誰もそうとは思わず、かえって、品子の何事にも注意が行き届くのを感心するほどだった。

 そして、最後に至って春海夫人が提出したのは、昔、英王ヘンリーが女王エリノアの外に美人ロザモンドに思いを寄せ、密かにしのび会おうとするところへ女王が入って来て、腹立ちの余り、懐剣を持って美人を殺そうとし、王が王衣の御袖を以て密婦をかばおうとする段である。

 誰もこの趣向に大して一言も言う前に、品子は賛成し、
 「アア、それがよいでしょう。私が女王エリノアを勤めましょう。」
と言った。自分が女王となり、澄子を王の密婦にすれば、澄子より一段上に立つことが出来るからとの心である。

 しかしその王には誰がなる。これは勿論、英国の貴族である瀬水子爵を尊敬すると言う心から、冽を当てるものだとは誰も納得していることだ。たけし自身も賛成と見え、別に異存も言わず、妻澄子が賛成するやいかにと又も、怪しむように澄子の顔を見た。

 澄子は日頃のようにはにかんだ様子もなく、
 「はい、私がロザモンドを勤めましょう。この女の方が多く王に愛されていたと言いますから。」
と、ただ冽に愛されるるのを何よりも有り難く思う様に言った。この心がけには一同感心して笑顔となった。

 品子はかえって、自分が女王の役を選び取った為に、澄子がこうまでも誉められる事になったかと思うと、何となく忌々しい。特に、今夜に限って、澄子の物言いも、振る舞いも真に子爵夫人らしいところがあって、ややもすれば自分を圧倒するばかりに見えるのが、最も癪にさわる。決して品子の心の中はロザモンドを殺そうとしたエリノアの心の中に劣らない。

 いよいよ相談も終わって、一同は解散する前に、庭の一方にある小亭に行き、月を見て、かつは来客中の音楽に堪能な某夫人の演奏を聴くことになった。澄子は誰にも後れをとらず一同と打ち混じって談話しながら座を立って庭の小亭の方に行った。

 品子も同じ庭に出たが、わざと一同より遅れ、月下に咲く花を賞する振りをしてたたずんでいた。しばらくすると、冽が引き返して来て、
 「おお、ここにいたのですか。貴方一人が見えなかったのでどうしたかと探しに来ました。」

 品子は殊更に気の毒そうな顔つきをして、
 「今夜、私は今にも貴方が立腹なさるかと思い、一人でどれだけ気をもんだか知れません。」
と余ほど重大な事の様に言った。冽は不思議に思って、
 「エ、私が立腹、それは何事をです。」

 「いや、お気がつかなければ言いますまい。」
 こう言われるとますます聞きたい。
 「気のつかない事はますます言ってくれなければいけないじゃありませんか。」
 品子はもったいぶったように考えた末、
 「御自分でお気のつかない事を言えば、何だか人が悪いように聞こえますし。」

 「何でそのように聞こえますものか。言ってくれないからこそ人が悪いと言うものです。」
 「と言って、人々がテーブルの下で膝をつき合って笑っていたことを言わないのは、この後もやはりこの様な事があっては。」

 冽は全く顔色を変えた。
 「え、人々がテーブルの下で、膝をつき合って私のことを」
 「あれ、そのように重々しくおっしゃってはますます言いにくくなります。貴方のことでは無く、澄子さんの事ですよ。」

 「え、あいつがまた何か失敗をしましたか。どんなことです。どんなことです。」
 「だけれど、ひどく澄子さんを叱っては嫌ですよ。」
 ひどく叱るなとは言うのはひどく叱らせるまじないのようなものだ。
 「叱る叱らないは私の判断です。あいつはどのような事をして、又私が人に笑われる種を作りました。」

 品子はやむを得ぬと言う様子で、
 「尤(もっと)も、今初めてのことではありませんが、澄子さんは人の前であんまり貴方に甘えすぎます。丁度貴方の愛を得ているのを見せびらかすように。既に役割の時なども、王が多く愛したなどと嫌らしいことを言って、あの時皆が顔を合わせて苦笑いをしたのが貴方には分かりませんか。」

 誉めた笑顔をあざけりの笑顔の様に言い直すとは、何たる恐ろしい舌先だろう。冽はさてはと目が覚めたように目がくらんだ。人に笑われると言うことが何よりも冽の身を動かす力がある。

 この夜、家に帰って後、澄子にいつもより厳重に言い渡した。
 「決して人の前で、今夜のような嫌らしい素振りをしてはならないぞ。」



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