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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           四十一  「死ぬ所までも」

 書いた手紙の文句には、いくらか嫌味も有る。嫉妬もあるが、これは免れ難い。ただ心のままを写したのだ。
 これだけ書いたため、一時は心が少し落ち着いた。更に封筒に入れて、表に夫の名を書いた。真にこれが夫と自分の間が絶える瞬間かと思えば、悲しまないつもりで居たけれど悲しい。心の底から自分の腸(はらわた)がちぎれて出るかと思うほど悲しい。

 悲しくなくて何としよう。夫冽(たけし)より、外に男の顔さえ知らないほどだ。幼い時から、多く男と話しさえしたことの無い身が、一図に冽の愛にほだされ、天にも地にもこの人をただ一人の保護者と思い、何事もこれにすがって居たのに、今はその人に生涯の別れを告げ、再び世に出る事の出来ない暗い世界に落ちて行くのだ。

 けれどこの決心も実は夫のためである。邪魔な我が身を無い者にして、夫に自由を与えるのである。悲しむには及ばないことだと、無理に心に思わせれば思わせるほど、なおさら悲しい。自分が立ち去った後で、夫はどのように思うだろう。世間への義理もあるから、当分は手を尽くして行方を捜すことは捜すだろうが、ともかく心の中では清々したと喜ぶに違いない。

 捜されて、もし途中で見つけられては大変だ。どうしても追っ手が知ることの出来ないように工夫を定めて置かなければならない。
 工夫に又しばらくの時間を要したが、考えが浮んだと見え、立って静かに侍女浅原粂(くめ)の部屋に行った。粂は非常に頭痛がすると言って夕方のうちに退いたままである。多分、寝ていることだろう。

 勿論、粂は澄子一人の雇い人で、この家の雇い人ではない。澄子が立ち去れば主人無しになって、この家に居るところも無い者となるのである。澄子がここを立ち去るについては、粂女の処分もしておかなくてはならない。澄子の心では、自分の供として引き連れて、英国まで行き、父に頼んで、嫁にやるなり、他に奉公をさせるなり、しかるべく取り計らってやろうと思っている。その上にもまだ、多少の考えがあるのだ。

 やがて、その部屋に入ってみると、寝てはいるが、まだ頭痛は治っていないのか、何と無く寝苦しそうに、顔も悲しそうな顔をしてる。しばらくの間は、起こしかねてじっと、寝姿を眺めていたが、なるほどよくも自分に似ている。姉妹と間違えられるほどだと、人から何度も言われるのを、それほどとも思わないでいたが、今見ると、髪の毛などは、色艶から房々したところまで同じで、生え際までよく似ている。

 世には他人の空似と言って顔まで似た人さえ居るから、姿と髪の毛が見違えるほど似ているのは、珍しくも無いが、ちょうどその者が、自分の侍女となって、自分が世を捨てる時までも供をするとは、何かの因縁ではないだろうかと、澄子はこのように思った。後々から見ると、本当に因縁であった。因縁も因縁も、極深い因縁であった。

 澄子が眺めている間に粂女は悪夢にでもうなされたのか、俄然として目を覚まし、そして起き直って、きちんと座った。
 「これ、粂や、気分は好いか。」
 粂は初めて気が付いて、
 「あれ奥様、何か御用で御座いますか。」
 「はい、大変な用事だよ。貴方は私の供をしてこれから遠いところまで行っておくれか。」

 粂はベッドから飛び降りて、
 「はい、貴方様のお供ならば、死ぬところまで参ります。」
 澄子は今夜この家を忍び出て、英国に帰ることを言葉短く告げた。粂女は驚いて二言三言、
 「その様なことをなさっては」
などと言ったけれど、澄子の心のうちをほとんど自分の心のようによく知っているいる上に、主人のすることに良し悪しを言うべき身分でも無いのだから、直ぐにかしこまって、引き連れられて、澄子の部屋に来た。

 なぜか粂はぶるぶる震えている。
 「貴方は寒いのか。」
 「はい、どういうわけか、一方なら無い寒気で、死ぬのかと思いますけれど、大丈夫お供は出来ますから。」
 「では、次の間に、先日私が脱ぎ捨てた厚い着物があるから、少し季節は違うが着替えておいで。何いいよ。そして下へも私の古いのを着込むが好い。」
 粂は遠慮していたが、寒さに耐えかねた様子で次の間に行った。

 粂が去った後で、澄子は用ダンスを開き、ようやく旅費に足りるだけのお金を財布に入れ、これを小さいハンドバッグに入れた。なお、そのハンドバッグに入れた品は、二、三の書類のほかに、紙に包んだ良彦の産毛、婚礼の前、冽に貰った我が兄、時之介の遺髪を入れた金の小箱、婚礼の時、父が買ってくれた真珠の襟飾りなどであった。

 もし、持って行く気なら、金銀宝石を初め、貴重な品々が我が物となってこの部屋に満ちているから、普通の人の一人や二人の全財産に当たるものを小さい手提げに納めて行くことも出来る。生涯を安楽に暮らす用意はなんでもないが、我が身と離れる事の出来ない前の品々のほかは、チリひとつ持って行こうとは思わない。

 これがもし品子であったらどうだろう。部屋中をかばんに詰める工夫は無いかと考えるところだろう。



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