巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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野の花

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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六十六 「自分がその活劇の達者(たてもの)とは」

 「驚いたらしい」というような優しい言葉は、この時の河田夫人の心の中の万分の一にも足りないのだ。けれど夫人は、ほとんど必死の思いで耐えたと見え、今度は前ほどその驚きを顔には現さなかった。

 品子の方が今の瀬水子爵夫人だと聞いたために、河田夫人はなぜ驚いた、どのように驚いた、その子細やその様子は、ここでは言わない。追って自ずと分かって来るときもあるだろう。ただし、夫人は腹の中でつぶやいた。

 「エエ、知らなかった。知らなかった。と言って今更仕方がない。ただ、一目でもあの子の顔を見るためには、この様な事でも耐えなければならない。これだけで辛いことが済んだのではなく、これから本当の辛い事が始まるものと、ここで覚悟を決めておかなければ。」
と今更のように深い決心を呼び起こした。

 河田夫人がこの様なことを考えて、何となく普通でない様に見える様子を、或評議員夫人は、さては不合格を気遣ってのことだろうと見て、気の毒の念に駆(か)られ、
 「春田博士、もうこれで雇い入れ契約が、出来たものと見ても好いではありませんか。」

 博士がまだ返事をしない間に、
 「そうですとも」、「そうですとも」
と賛成の声が引き続いて二、三婦人の口から出た、博士としても勿論、そうであるのだ。

 いよいよ決まると成ったからには、先の二人の候補者を断らなければならない。相手が相手だけに、なかなか厄介な仕事である。けれど、世の中は妙なもので、数人集まった中には、必ず他人の難しがる事を進んで引き受け、そして自分の腕前を誇りたがる人がいる。このような人に限って、又妙にうまくやる。イヤ、うまくか、まずくか、どうでも、こうでも、押しつけてしまうのだ。

 幸いに丁度この様な夫人が一人あって、自分が引き受け、先ず、用務員に上等な茶を入れさせ、それを自分の後ろに従え、控え室にやって行き、甘い気休めの言葉の中に、苦い断りの文句を包んで、子供に丸薬(錠剤)を飲ませるように飲ませてしまった。

 しかし、気休めの言葉が幾ら多くても、帰する所は断りだから、不合格者は苦いところだけを味わったと見え、表情を変えた。第一候補者は、
 「世の中は何故この様に間違って居るのでしょう。女子教育が振るわないのはもっともです。」
と言い、

 第二候補者は、
 「どうしてもうまく人に取り入るには、ズウズウしい方にはかないませんよ」
と言い、二人ともほとんど、悪態のように言って立ち去った。

 後で評議員婦人達は、河田夫人を連れて、とりあえず学校の総ての部屋を見せた。それが終わると、その中の最も河田夫人に心酔した、田所夫人と言う人が、
 「是非とも今夜は客分として私どもの家にお泊まり下さい。」
と言ってきかなかった。勿論、辞退するべき事でもなかったので、河田夫人は一礼を述べて、その夫人の家に導かれて行った。

 その家には三人の子供が有る。三人とも直ぐ河田夫人に、慣れ親しんでしまった。夫人は余ほど子供が好きと見えるが、取り分け真ん中の五つになる男の子を抱いたときには、愛しさに耐えかねるような様子が、ありありと見えた。

 主婦人はそれを見て、
 「貴方は子供がお有りですか。」
と聞いた。
 河田夫人;「一人、男の子が有りましたが失いました。この様子を見ますと、ツイ、思い出しまして」
と言って両の目を潤ませた。

 それは去て置き、評議員夫人が立ち去って、校長一人、その後に残ったところに、瀬水冽が、今日の候補者の結果を聞きに来た。校長博士は満足の笑みを浮かべて、
 「この学校は実に幸運ですよ。」

 冽;「さては適任の候補者が有ったと見えますね。」
 博士;「適任という言葉では足りません。実に二人とは得られない人を得たのです。」
 この人がこうまで言うのは一通りの事ではない。
 冽;「余ほど貴方の意に叶(かな)ったと見えますね。」
 博士;「ハイ、その婦人を見ると、人間世界に真の天使が居るという念を起こします。」

 実にこの博士が女性をこうまで誉めるのは聞いたことがない。この様子では、五十余年来、この博士が実践躬行(きゅうこう)していた独身主義が追って破れるように成りはしないかと、冽は冗談に「貴方の言葉を聞くと、一つの活劇が起こるかも知れませんよ。」と戯れた。
 その活劇の大達立者(おおだてもの)に、冽自身が成るなどとは、思いも寄る筈がない。

 冽;「して、その夫人は何処に居ます。」
 博士;「田所夫人が今夜だけ客分として自分の家に案内して行かれました。」
 「オオ、あのやかましい田所夫人が、それほど心酔したとは、成る程、世にも珍しい婦人と見えますね。」

 全くどのような婦人だろうと、冽は少し興味を持ちながら家に帰った。



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