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野の花(後篇)

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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野の花

     七十一 「幾ら悟りを開いても女は女」

 様々に思い悩んでも、これと言った良い考えは出ず、最早や、寝ても居られない思いがするので、河田夫人は、起きて戸を開き、庭に出た。

 夏の夜の明けは早く、早や東が白んでいる。少し心を押し鎮(しず)めなければ、とても今日品子夫人と、対面する勇気が出ない。先ず木の下に腰を下ろし、熱くなっている頭を、暁の風に吹かせた。けれど心はなかなか鎮(しず)まらない。

 またしても思い出すのは、今までの自分の振る舞いだ。自分は夫のため、子のためを思い、死人同様の有様となり、昔の烈女の後を追って、この身を犠牲にしたつもりだが、それが為に思わない成り行きとなり、夫に二重婚と言う、恐ろしい罪を犯させたと有ってみれば、或いは我が振る舞いが、犠牲ではなくて、一種の我がままと言うものでは、無いだろうか。

 嫁に行くのは辛いものと、昔から誰しも言うのに、その辛さが我慢できず、誰にも知らさず、家を出たとあっては、全く我がままに違いない。

 自分の考えでは、どれほど善で有ったにしろ、神の目に、果たして善と見えるだろうか。是をもし、我がままとすれば、我がままの為に家を捨て、子を捨て、夫と品子とには、重婚の罪を犯させた。実にこの上もない、大いなる我がままで有る。

 アア、神は何と見たまうかと、その返事を求めるように仰いで、天を望んだのは、実に考えに困った結果である、けれど、天はただ漠々、ただ蒼々として、何の答えも送らない。

 「イヤ、イヤ、我がままではない、後からはどのように見えようとも、その時の考えは、ただ、夫のため、子のためとのみ思い詰め、この身を、殺すまでの決心で有ったことは、神もご理解くださるであろう。」
と全く、声を放って、芝生の上に転がって、もだえ泣いた。

 しばらくすると、神の返事とも言うように、一つの考えが浮かんで来た。我がままと、我がままでないのと、分かれるのは、ただこの後の、私の行い一つに有るのだ。

 ここで、もし自分の本性を人に知られ、全くこの河田夫人と言うのが、その実、瀬水子爵夫人澄子と、分かるようなことが有っては、それこそ夫や品子が、間柄も逃れ道のない重婚者、私通者、となり、私の今までの振る舞いも、全くの我がままになってしまう。

 これに反して、もし何処までも、初一念を押し通し、澄子は死んでしまったものとすれば、妻に死なれた人が、後妻を迎え、死んだ妻の後へ、後妻に行くのは、男とし女として、何の罪にも成らないこと。二人とも永く後々まで、幸福に暮らされる訳である。

 二人に幸福を与えて、罪もなく立ち行かせさえすれば、私の所業も、我がままではない。やっぱり初めに思った通りである。
 ようやく、このように区別を付けて、いくらか心も、安らかにすることは出来たが、思えば哀れむべき限りである。

 そもそもからの恋の敵が、我が夫の妻となっているのを見て、その幸福を計ってやらなければならない。しかも、その幸福が、少しくらいの辛抱で計れることか。

 この後、何年とも長さの分からない月日を、生きながら、死人の数に入り、風の音にも、もし見破られはしないかと、びくびくして、自然の寿命の尽きる時まで、偽りの姓名、偽りの身分の下に、隠れて居なければならない。

 もし、今ここで、この辛い決心を捨てて、澄子という本性を示しさえすれば、人の思惑はともかく、誰とて争うことの出来ない、本来の瀬水子爵夫人なので、恋の敵を、その高い身分から引き下ろし、自分は身に備わっている位置に戻り、何一つ不足もない、栄耀栄華に、永い後々を暮らして行くこともできるのに、

 アア、「汝の敵を愛せよ」とは神の御言葉、聞くだけなら美しいが、行うのは実に辛い。
 けれど、河田夫人の心は、この考えが出て、大いに落ち着いた。
 この時、早や東の空に日も昇り、学校の時計が六時を打った。

 品子夫人に対面の時間が、刻々に近寄るばかりだから、その支度に掛からなければならない。支度の第一は、自分の心を落ち着ける事である。品子夫人の前に、少しも悪びれたところを示さず、露ほども、澄子に似ていると、思われてはならない。

 そのうちに、授業の始まる八時も、間近になった。髪はこの学校に来るときに、短く刈って染め直しばかりだから、、どうするにも及ばない。ただなでつけて置けばよいと、久しぶりに鏡に向かった。

 見れば昔の美しさが、青白い顔の面に、残りすぎるほど残っている。幾ら、悟りを開いても、女は女だ。顔に美しさが残っているのが、決して腹立たしくは無い。けれど、この美しさは、隠さなければならないと、未亡人頭巾を取って深く被ると、不思議なもので、自分でも別人のように見えた。

 軽く朝食を済まして、教室に出て行った。名は事務長でも、授業の過半を受け持ち、助教師達よりは、余計に生徒に接するのだ。教えている間も、何時、品子夫人が現れるかと思えば、強いて落ち着けた身も震える。

 この様な事ではならないと、思う間もなく、早や、馬車の音がして、女性徒の一人が、
 「アレ、子爵夫人がお見えに成りました。」
と叫んだ。



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