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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        八十三 「まだお若いのに」

 冽の去った後、数時間の間、河田夫人は思うまいと思っても冽のことを思い出した。彼の姿の、哀れそうに衰えていたことと、彼があの詩歌集を腹立たしそうに持って去ったことは、他人の推量しえないほど夫人の心を動かした、

 彼は私のためにやつれている。彼は今もなお私への記憶を一方ならず大事にしている。こう思うといっそ自分の本性を現して彼の心を慰めてやりたいと言うような気も、起こしてはならないけれど起こる。

 さればとて、今本性を現しては大変である。冽の身の破滅にもなる。私としても身の置き所が無いことになる。死んだ者は飽くまでも死んだ者、私は生涯河田夫人のままで居なければならない。

 其れにしては誠に危険千万なのは私のこの顔である。既に良彦にも疑われた。疑わないのはただ品子一人であった。この後とても何度かまた会わなければならないが、会う中にはどのようなことで見破られかも知れない。

 この翌日夫人は町に行って青いめがねを買って来た。そしてややもすれば、露見の本となる恐れのある、その美しい目を隠してしまった。人はただ眼病のためだろうと思うだけだった。

 これから翌年の夏頃までは波乱もなしに過ぎた。夫人の身は先ず太平であったが、しかし、その間のおおよその有様をつまんで記しておかないと後の話が分からない。

 冽の去った翌々日に良彦が別の詩歌集を持って来たが、この時から良彦はますます夫人になじむばかりで、機会さえあれば必ず遊びに来るほどになった。

 その後一度品子夫人が来た。これは単に学校を見回って自分の慈善を輝かせるためだ。河田夫人は前の時ほど緊張せずに接待したが、教室の見回りが終わった後で、品子は良彦が度々ここへ遊びに来るかと聞いた。

 もしも、品子の機嫌を損じ、良彦を寄越さないようにされては大変と思い、河田夫人はほとんど嘆願のような声で、
 「ハイ、時々お出でにはなりますが、少しもいたずらなどはされていません。」

 品子はこの心配そうな様子を見て、自分の威光がこうまでも輝くかと深く満足して、
 「ナニ、来るのは構いませんけれど、貴方が迷惑だろうと思いまして。」

 夫人はあわてて、
 「イイエ、来て下さるのが私には何より嬉しく思います。私の失いました子が、今有ればちょうど良彦さんと同じ年頃ですので、私はアノ方が来て下さる度に心がまぎれますので。」

 品子は全く感じ入った様子で、
 「なるほど、母の愛が一番美しいと詩歌などにも好く有りますが、本当にそうでしょうねえ。私は一人も子を持ったことが無く、真に不幸だと思います。」

 この言葉ばかりは、偽り多い口から出た誠の言葉と見え、言い終わって溜息の声を洩らし、寂しそうに首を垂れた。実にこの品子は、今まで自分の思うことをことごとく達し、澄子をも追い出し、自分がその後に座り、栄耀栄華(えいようえいが)ただ心のままであるけれど、女の身に無上の賜物(たまもの)たる子宝だけがままならないのである。

 良彦の成長を見るに付け、一日としてそのことが気に掛からない日は無く、憎い澄子の生んだ子が、遂にこの家を相続することになるかと思うと、ただ悔しくただ残念である。

 或いは天がなお、良彦を哀れみ、もし、この女に誠の子を与えては、どのようなことに成るかもしれないと、暗に良彦を加護しているのかも知れないけれど、品子はただ残念と言う日頃の思いが、このような時にも知らず知らずのうちに洩れるのである。

 河田夫人はこの様子を見て、少し気の毒に思い、
 「まだお若いのに」
とただ一言、慰めのような言葉を言った。そして、これに引き比べて、これだけはまだ自分のほうが幸せだと、心のうちで満足に思った。

 自分には良彦という立派な子があり、健全に育っていて、他日、必ず瀬水子爵家の主人になるのだ。
 とは言え、今自分の言った言葉の通り、品子はまだ子の出来ない年ではない。いわば若い身空である。

 「まだお若いのに」
の一語の中からどれほどの事柄が湧いて出るかは、言った本人も知ることが出来ない。全く神より外はこれを今日に解釈することは出来ないのだ。

 この後、又、一月ほど経って、今度は品子が夫冽と共にこの学校に来た。これは、瀬水家に滞在している客たちが、是非学校を見たいと言うので、夫婦が案内して来たのである。

 客は七、八人で、このうちに女客も三人あった。河田夫人に取っては、夫婦の睦まじい様子を見せられるのは実に辛い。辛いけれども、又夫婦がどれほどまで睦まじいか、冽がどれほどまで今の妻を大事にするか、その辺の様子が分かり、従って、わが身が冽の心の中に占めている領分と、品子が今占めている領分との比べも分かる。

 明らかにこれを見比べると言う訳ではないが、夫人は異様に心を動かして、客に気を配るようでも、知らず知らず客よりも、夫婦の方に余計気を配った。



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