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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

   九十三 「守護しますとも」

 万感交々(こもごも)起こるとは河田夫人のこの時の胸中である。昔自分が良彦を抱いていて、冽がちょうどこのように良彦の頬にキスをしたときの事を思い出す。

 今の自分の身のはかなさをも感じる。恨めしくもあり、懐かしくも有り、ねたましさ悔しさもその中に無いではない。それやこれやに心はただ、麻のように乱れ、最早一刻もこの座に耐えられなくなった。

 冽はキスをし終わって顔を上げ、
 「中々可愛い子でしょう。」
と軽く言った。河田夫人はこれにも返事することは出来ない。幸いにしてこの時、品子が赤ん坊を受け取ろうとするように、夫人の方に手を出した。最早面会も終わったと言う印である。

 夫人は赤ん坊を品子に返した。返す間もなるたけ、顔を下げていた。かえってこの様子が大いに恭(うやうや)しそうに見え、別に怪しまれずに済んだ。

 そして、夫人が立とうとすると、冽は親切に、
 「貴方は絵画などがお好きでしょう。美術室には随分珍しい各時代の傑作が有りますから、良彦に案内させて、一順お見廻りなさい。」
と言った。

 夫人は好く覚えている。昔、花嫁として、初めてこの家に来た時に、夫冽の手にすがって、いちいち冽の口から説明を聞きながら、それらの傑作を見た。又その後、何度か自分で客を案内してその部屋に入ったことがある。

 それだけではない。婚礼後間もなく冽が、私の肖像を有名な絵書きに描かせ、非常に良くできたと言って喜んで、
 「当家の美術室にあまたの名画があるけれど、この肖像画ほど大切なものはない。」
と言ったこともある。

 冽は又も言葉を継いで、
 「この頃良彦が貴方を慕うことは実に異常です。この父を慕うよりも、かえって貴方を懐かしがります。」
と言って笑った。夫人はこのように言葉を掛けられるのが、何より辛い。相も変わらず恭しい態度で頭を下げ、心の中では逃げるように引き下がった。

 後で冽は品子に向かい、
 「アノ夫人はあんまり顔も上げず、ほとんど一言も聞き取れるほどの声を出さないが。」
と怪しむように言った。品子は、
 「ナニ心の小さい女は、貴族の家に呼ばれ、分外の待遇を受けると、皆恐れてアノ通りです。」
と事も無げに答えてしまった。

 冽も成るほどそうかと思い、
 「その様に心が小さいので、最も女子教育の任に適するのだろう。」
と怪しむ念は直ぐ消えた。このようにして夫人は廊下に出ると、階段のところに良彦が待っていて、

 「オオ、夫人、お父さんが、僕に美術室を見せて貰えと言ったでしょう。その前に先刻話した僕の書斎にいらっしゃい。書斎にはね、僕のお母さんの肖像が油絵になって掛かっていますよ。」

 さては冽が、
 「美術室の名画にもこれほど大切なものは無い。」
と言ったその時の私の肖像画が、今の良彦の書斎に掛けられたのかしらと、少し聞いてみたい気になった。

 「オオ、そうですか、どうしてその様な肖像画があるのでしょう。」
 良彦:「ナニね、元からお父さんの書斎に有ったのを僕がねだって僕の書斎に掛けてもらったのです。」
 夫人;「お父さんは、アノ直ぐに貴方にくれましたか。」

 良彦;「イイエ、長いこと考えていましたが、アア、品彦には母がある、お前には母が無い、この肖像に母の心がこもっているならお前を守護するだろうと言って、それから、自分で持って来て掛けてくれました。」

 夫人は異様に声を震わせて、
 「オオ、守護しますとも、守護しますとも。」
と言った。
 そのうちに良彦の書斎に入ったが、小奇麗に良くできていて、壁には英雄の肖像が四、五枚掛かり、その真ん中に女の姿が一枚ある。

 「これですよ。」
と良彦が指し示したが、夫人は自分で自分の絵画を見るのが何だか恐ろしい気がする。けれど見ないわけには行かないからおもむろに顔を上げて見ると、自分ながらこんなに美しかったのかと、驚かされるほどの容貌である。

 まだ二十歳にも足りない、いわば小娘も同然な顔で、苦労と言うことも、兄時之助を失ったほかには悲しみと言うことも知らない、真に清浄無垢の様子が自ずから現れている。

 そして、今、この肖像をこうして眺めているこの身はそもそも何者だろう。枯れた、しおれた、この肖像の幽霊である。心は恨みや悲しみや、様々な妄念に掻き乱され、名も自分の名でない名を以って人に呼ばれ、自らも名乗り、我が家と言う我が家も無しに、唯この世に彷徨(さまよ)っている。

 何処に昔の面影があるだろう。未亡人の頭巾をかぶらなくても、誰がこの身を澄子だと思ってくれよう。アア、澄子ではない。澄子ではないと、ほとんど声を出して泣きたくなった。

 良彦はそばから、
 「どうです、僕のお母さんは美しいでしょう。」
 夫人:「ハイ、美しい中にこの世を去ったのが幸せです。」
 良彦;「何で幸せです。いくら年をとっても、僕のお母さんには違いは無いでは有りませんか。」

 夫人は顔を背けて窓から外を眺めた。公園から、馬場から、森から瀬水城の景色が、残らずでも無いが、窓から見える。このような所に、昔のままで、もしも苦労無しにおれたなら、この身も品子のように若く、美しく、そしてこの子にお母さんと呼ばれ、慕われ愛せられているだろうにと、何だか昔懐かしい思いがする。

 イヤ、このようなことではならない。長居をしては益々心が弱くなるばかり。早く帰って、二度とこの家に足踏みをしてはならないと。たちまち心を励ましたが、しかし、何事も思うように行かないのが憂き世。間もなくこの家へ、足踏みせずにはおれないことになって行くとは、今は思いも寄らないところである。




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