nyoyasha19
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 4.25
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如夜叉 涙香小子訳
第十九回
踊り踊りって第三回の終わりになったので長々は疲れを覚え呼吸さえも苦しくなって来た。乞食婦人は夫と見て遠慮もなく、
「お前は少しお休みよ。私は新手と踊るから」と言い長々が引き留める暇さえ無い間に早や手を解いて走り去り、室中で最も上手な一組に結び付いた。之を見て長々の失望は一通りでなかった。さては彼の婦人がこの指輪に目を止めた様だったのも全く我が心の一人合点だったか。
これから如何したら好いだろうと思案も容易には定まらなかったが、この儘止めるべきではないので又も最初の女を相手として第四回まで踊り終わった。乞食婦人は何処に行ったのだろうと空しく辺りを見回すと、手下と共に食堂に入て行ったのかり行ったのか見えなかった。彼の婦人が指輪に心も止めずに立ち去ったところを見れば松子でない事は明らかだが、だからと言ってまだ疑わしいところが無いわけではないので、若しやと思い我が相手に向かって、
「俺が今一緒に踊った女は有名な『まあ坊』と言うのだがお前知っておるかと問い試むると、
「そうですかネエ。『まあ坊』と言う踊り手があった事ハ聞いたがことがあるが見るのハ今夜が初めてだ。」
と答え猶語を継ぎて、
「そのような事はどうでも好い。喉が渇いたから私を食堂に連れて行っておくれ。その『まあ坊』と言うのも今食堂へ入っているから。」
と請われて、
長々は食堂に入りたいことは山々なれど既に嚢中無一物なれば当惑の様子で頭を掻き、
「生憎今夜は紙入れを忘れて来たから」
(女)「おやおや一文無しかへ。そのような者は仕方が無い」
と女はほとんど愛想を尽かした様子で立ち去った。この女が立ち去るのは構わないが何分にも乞食婦人を取逃すのは惜しかったので、せめては栗川巡査に会い、乞食夫人が真実の『まあ坊』だったかどうかを聞きたいと思い彼が立って居た辺りを探しに、二足足三足歩み行くと、この時後ろから我が肩に手を置く者がいた。
振り向いて見ると、これは如何したことか、全く今の乞食夫人だった。長々は大胆に、
「オヤ、お前は食堂へ入ったと思ったが」
(乞)「そうさ、食堂へ入り食べ物を注文して置いてお前を迎えに来たのさ。」
という声は松子の声とは異なって居るようで、又言葉にも強く外国の訛りを帯びている。長々は益々思い切り、
「俺を迎えに来たと、お生憎だ、こっちは文無しだから。」
(乞)文無しだから私が奢ってやろうと言うのじゃないか。悟りが悪いネエ。」
と言う。先の女には奢ってくれと請われ、この女には奢ってやると言われる。だからと言って男の身として意気地なく見ず知らずの女に奢られるのは面白くないので、急には返事の言葉も出ない。
女は少し笑いを含んだ声で、
「馬鹿だよこの人は。お出でなよ。嫌なのかい、嫌でないのかい」
と問う。この言葉の調子からみると勿論上流の婦人ではない。 (長)「有難いは有難いが別に喉も渇かないから。」
(乞食)「何をお言いだ。酒を飲むのに喉が渇いていないと言って断る奴がある者か。お前の踊りッ振りが気に入ったからこの次も又一緒に踊るため今から親しくしておこうと思うから奢るのさ。お出でよサア。」
遠慮も会釈もなし、長々は腹の中で、この女たとえ松子夫人ではないとしても、かえって真の『まあ坊』かも知れない。松子と『まあ坊』と同じ人か別な人か夫(それ)さえも未だはっきりしない事なので、この女に奢られながら様々に問い試みるのも無益ではない。兎に角も連れられて行くのに限ると思い、
「では奢られよう。しかし気の毒だなァ」
(乞食)「気の毒なら今夜奢り返せば好い。お前だって金の無い時ばかりではあるまい」
(長)「夫はそうだ」
と言いながらも猶様々に考え廻して、この女真逆(まさか)唯我が踊りが旨いため我に奢ろうと言うのではない。外に必ず目的が有るに違いない。
(乞食)「だがお前、私に惚れられたと思って厭らしい言葉などを使ってはいけないよ。私はその様な事は大嫌いで唯お前の踊りが気に入ったと言うだけだから。」
(長)「好し好し、だが俺の踊りよりお前の踊りには感心した。俺などが傍にも寄ることじゃない。人の噂ではセビルかメラガの本場所で稽古したのだろうと言うが俺も本当にそう思う。」
(乞食)「思うはずだ。スペインから来たばかりだもの。」
長々は之を機会(しお)に、
「道理で七、八年お前を見ないと思ってた。」
と言い先の様子を試さんとすると、女は唯怪しむだけで別に驚く様子もなく、
「何だと、七、八年前に私を見たと言うのかエ。」
(長)「見た様だ。七、八年前に『まあ坊』と言う踊りの名人があったがお前の踊り具合に良く似ていたから、俺ばかりでなく見物が皆お前を『まあ坊』だろうと思って居た。尤も『まあ坊』には頬に大きな傷があったがお前にはあるかないか半仮面を被っているから分からないけれど。」
(乞食)「何の彼のと仮面(めん)を取らせて私が美人か美人で無いかを見ようと思ってサ、男は直に顔を見たがり、顔を見せれば直ぐに惚れたの腫れたのと言うから嫌いサ。だが私も額の汗を拭かねば何時までもうるさくてこの仮面を被っては居られないから食堂ではこの仮面を取りお前に顔を見せるけれども。」
(長)「夫は有り難い。是非拝見しよう。」
(乞食)「ソレその言葉が厭らしいと言うんだ。是非拝見も何も無い。私が仮面を取れば否応無しに見ねばならぬ事になるじゃないか。良く御覧よ。私の顔にその様な傷は無いから。夫にお前の言うまあ坊とかは七、八年前に踊りの名人だったと言えばもう如何しても二十歳以上だろう。私は今年十九だから分かるハネ。この様な事を言ううちに食べ物の味が変わる。もうとっくに二人前言い付けてあるのだから。」
(長)「何だ二人前、ジャ外の連中は」
(乞食)「外の連中とは誰の事だ。」
(長)「憲兵や魚売り女に打扮(いでたち)て居たお前の手下サ。」
(乞食)「私に手下など有る者か。何をお言いだ。」
(長)「でも大勢でお前を取り巻き、次の間から出て来たじゃないか」
(乞食)「夫(それ)はそうさ。私が次の間を出ようとする時丁度アノ連中と一緒になったから一緒に出て来たのさ。外の場所と違いこの様な所だもの誰とでも一緒になるじゃないか。」
「俺は又お前の手下とばかり思ったが。」
(乞食)「手下でも何でもない。証拠には私がアノ連中と唯の一度も踊らず第三曲はお前と踊り第四曲は外の新手と踊ったじゃないか。」
(長)「夫はそうだが。」
(乞食)「アノ様な大勢の連中が有るほどなら何もこうしてお前を呼びはしない。唯一人で淋しいから呼んで行くのだ。」
と且つ語り且つ歩むうち漸く食堂に達した。この女の言葉を聞いて長々は我と我が身を疑うばかりだった。
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