巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume177

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

since 2016.6.26

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

       (百七十七) 尤も千万な問題

 

 荒れに荒れ、狂いに狂い、次には悪口の続く丈添子を罵倒した江南は、次第次第に罵(ののし)りも尽くして、聊(いささ)か神経が弛んで来たと見える。斯(こ)うなると、今まで唯腹立たしくのみ感ぜられた自分の大損失が、更に情けなくなって来る。丁度苦い物を口の中に入れられた人が、最初には大騒ぎして、殆ど夢中に吐き出すけれど、吐き出して、扨(さ)て我が心の落ち着いた後に、益々苦さが分かって来て、殆ど耐え難くなるのと同じ様な理屈では無いだろうか。

 彼は浸みじみと、情け無さ、悲しさが込み上げて来て、自分は何故に此れほど不運で有ろうと疑い、果ては泣かずに居られ無くなった。三十男が、声を放って泣くなどとは、爾(そ)う度々有る事柄では無いけれど、何うかすると、人生には泣くより外に慰藉(なぐさめ)の無い嘆きが有る。例之(たと)えば愛子を失なったとか、父母に死なれたとか云う様な場合が其れである。

 今、江南に取っては百萬円と云う大金が、父よりも母よりも子よりも可愛いい、其れを不意に失った為、彼は殆ど父と母と子とに、一時に死なれた様にでも感じたと見える。彼は椅子に身を置き、自分の前に在る卓子(テーブル)に顔を埋めて声高く泣いた。
 次には其れが咽(むせ)び声と為り、又次には啜り泣きと為った。

 幕の外から此の声を聞いて居た正直な保津老人は、只管(ひたすら)に呆れて、もう愈々(いよいよ)暇を取る外は無いと決心した。
 其れでも添子のみは、感じも無い様子である。先刻から江南の方を見向きもせず、声をも発しない。是は感じの無い訳では無い。実は力が尽きて茫然としたのである。
 其れでも添子の方が、江南よりも早く心を取り鎮めることが出来て、我に帰った。

 是より幾時の後、早や日も暮れ、部屋の中が殆ど真っ暗になった頃、添子は静かに立って電灯の釦(ボタン)を捻(ひね)り、まだ泣き伏した儘(まま)で居る江南の肩に、優しく手を置き、
 「貴方、貴方、何時までも此の儘では居られませんよ。」
と云った。江南も漸く顔を揚げた。添子は更に悲しみを帯びた声で、

 「私は、今まで何うか貴方の愛を得たいと、其れのみを心に祈って居たのです。先日あの四萬円のお金を持って帰って以来、幾分か貴方に愛せられる様に思い、ヤレ嬉しやと安心する間も無く、此の様な事に成りました。もう此の後に何の様な事が有らうとも、貴方が私を愛して下さる筈も無く、又私も貴方に愛想が尽きましたから、愛せられ度いとは思いません。此のままお別れに致しましょうか。其れとも仲を直して、世間体だけ矢張り仲の好い夫婦と見せ掛けて世を送りましょうか。」
と尤(もっと)も千万な問題を持ち出した。


次(百七十八)へ

a:101 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花