巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

simanomusume96

島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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         (九十六) 深山にでも入った様に

 今まで江南は、唯網守子と婚約が出来れば好い。必ずしも妻にするには及ばないと思って居たが、今は妻にする必要を感じ、
 「添子を振り捨てても構わない。」
などと思って居る。

 其れは無理も無い。網守子を妻にして、其の口を塞がなければ、何時網守子の為に、自分の名誉が崩されて了うかも知れない。けれど実を言うと、網守子よりも添子の方が危険では無いだろうか。若し添子を振り捨てては、其れこそ何の様な寇(あだ)をせられるかも知れぬ。

 又添子自らも、江南に寇をする数々の手段を持って居るから、江南が、到底自分を振り捨てることは出来ないものと、多寡を括り、彼が網守子に縁談を申し込むと言っても、どうにかして止めようとはしないのである。

 やがて江南は、国民美術院には着いた。ここには、田舎出の見物客や、古美術品を模写する学生などが入り込んで居るけれど、社交界の人と言っては、誰も来ない。全く公の場所で有りながら、密話に適当な所である。

 彼は中に入って其処此処と見廻って居たが、間も無く網守子の姿を認めた。 網守子自らも画学生である。手に一冊の帖面を持ち、画(絵)でも彫刻品でも、其の他の何品でも、自分の心に留まるのを書き留め、感想などを記して居る。

 彼女に取っては、是が何よりの楽しみで、今までも幾度ここに来たか知れない。
 頓(やが)て網守子が、他に人の気の無い、静かな一室へ歩み入った時、のっそりと蛭田江南が現れ、恭(うやうや)しそうに帽子を取って、網守子の前に立った。網守子は何だか薄気味悪く感じた。

 是は年頃の女の常で有ろう。如何に大胆で、心に蟠(わだかま)りが無いにしても、大きな建物の静かな一室は、踏む足さえも、四方の壁に異様に響いて、深山にでも入った様な気がせられるのに、出し抜けに一紳士が立ち現れるとは、追剥(おいはぎ)の現れるのとは違うけれど、何と無く不安の念に襲われる。

 況(ま)して網守子は、昨夜自分が、何れほど此の紳士を窘(いじめ)たかと言うことを知って居る。真逆(まさか)に此の紳士が、自分が窘(いじめ)られたとは、気が附かないだろうけれど、其れでも網守子の心は、毎(いつ)もほど、平気で居ることが出来ない。只だ勉めて平気を粧(装)うのである。

 直ちに江南は口を開いた。
 「今朝貴女が、ここへお出でと云う事を、初鳥夫人に聞きましたので、此の通りお後を追って参りました。」
 網守子は、初めて江南の顔が異様に青褪め、眼さえやや窪(くぼ)んで見えるのを知った。これらの事が、物凄さを添える様にも感ぜられるけれど、無遠慮に、

 「何で私の後を追ってお出で成(なさ)れます。」
謂(い)わば熱心な心へ、冷水を浴びせ掛ける様なものである。
 流石の江南も、直ぐに目的の事を述べ立てる訳には行かない。柄にも無く少しの間澱(よど)んだ。


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