巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune107

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.2.8

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 百七

 実に古松の言う通り、園枝の無罪を、悉(ことごと)く知っている者は、広い世界に古松の外に一人も居ない。我が身は終(つい)に、助かる見込みは無いかと、全く絶望に沈んで居た園枝も、古松の言葉を聞いては、真に蘇生の思いがし、如何ほどの報酬をも厭(いと)わないと叫ぶに至った。

 古松は園枝がこの様に進み出るのを見て、今迄園枝を説き落とそうとしていた弱い地位は、却(かえ)って園枝から説き落とされる、強い地位となったので、益々落ち着き、
 「オオそうか、俺に救って貰い度いのか、和女(そなた)がそう言うならば己も満足だ。救って遣るとも、夫(それ)こそ和女の身に一点の疑いも残らない様に、綺麗に言い立てて救ってやる。併し己は和女のために身を捨てるのも同様だから、安い報酬では了(いけ)ないぜ。」

 園枝は迫込(せきこ)み、
 「心に恥じない正直な報酬ならば、唯お前の望み次第だ。どうか私の無罪の証拠を悉(ことごと)く裁判官に知らせてお呉れ。」
 古「好し、好し、望み次第と有れば是で相談は極まったも同じ事。何も長く短く推し問答をするに及ばない、と云って何も望み次第と聞き、急に条件を高くする訳じゃ無い。俺の望みは初めから極まっている。和女(そなた)が牢を出た後は、己に年々5千ポンドの年金を生涯送って呉れと言う丈だ。」

 五千ポンドの年金とは、中以上の貴族にも多く類のない所得なので、園枝は古松の言葉が真面目なのか、冗談なのか殆ど判断することが出来ず、
 「エ、5千ポンドの年金ーーーー。」
 古「そうよ、何もそう驚く事は無いーーー。」
 園「私の身にその様な大金がーーー。」
 古「云うな、云うな、此方(こちら)は残らず常磐(ときわ)男爵の所得を調べて有る。英国で一、二と云われるアノ男爵の妻となれば、一年に5千ポンドの融通は易い事、臍繰(へそく)りの中からでも支払って行かれるワ。」

 園枝は殆ど情け無い声を出し、
 「夫(それ)ではお前は、私が此の牢から出されれば、再び男爵の妻になる者と思って居るのかえ。」
 古「何だ再び男爵の妻に、馬鹿を言へ、再び成らなくても、男爵の妻じゃないか、何時男爵と夫婦の縁を切った。成る程、事の間違いから、妻でない良人でないと言い合って、男爵の家を出たでは有ろうが、夫婦の縁がその様な事で切れるものではない。此の通り牢の中にあっても和女は矢張り立派な男爵夫人と云うものよ。」

 園「未だ面向きに離縁の手続きは済んで居ないかも知れないけれど。」
 古「よしんば手続きが済んだ後としても、構う事は無い。己は良く男爵の人柄を知って居るが、容易に人を疑う代わりに、又容易に其の疑いが解け、愈々(いよいよ)解ければ、打って変わって前よりもなお厚く信愛すると云う気質だ。和女(そなた)が少しも不義者で無く、唯皮林育堂が永谷礼吉と組み合って、男爵の財産を奪うため、和女を不義者に落としたのだと分かって見ろ、男爵は再び永谷を勘当し、和女の為に遺言を書き替える位では満足しない。

 清い和女を苦労させて済まなかったと云い、それはそれは天にも地にもない様に、以前よりは輪に輪を掛けて和女を愛し、和女を大事にする。和女が再び男爵の妻になるのは厭だと云った所で、追い付かない。金が欲しくないと云った所で、和女の身は金の中に埋まる様なものだ。男爵の財産は全然(すっかり)和女の自由に成るワ。」

 「若しそうならない暁には、又己がそう成らせる工夫が有る。5千ポンドは大金でも、其の時には唯の五千ポンドよりも容易だよ。ナニもけちけちとそう惜しがる事はない、それとも万が一此の見込みが外れ、男爵が元の様に和女(そなた)を愛せず、己が工夫を施しても其の工夫が旨(うま)く行かず、和女が男爵夫人の名ばかりで、何の融通も利(き)かないと云う有様に陥(おちい)れば、夫それはもう5千ポンドを貰おうとしても、出来る筈はないから、其の時には、己(おれ)も自分の見込みが外れのだと断念(あきらめ)て、和女から一文も取ろうとは云わない。

 サア何も難しい約束では無い。己は約束の文句まで認(したた)めて持って来た。和女(そなた)が唯自筆で、
 『獄中にて常磐園枝』
と是だけの字を書き入れさえすれば好い。文句も極極短い、唯、
 『この身が貴殿の弁解によって疑いが晴れ、再び以前の地位に復(かえ)れば、年五千ポンドづつ貴殿の生涯、報酬として差し上げることと致します』
と唯是丈だ。
 若し和女が履行しないとしても、真逆(まさか)に己が、此の証書を以って、法廷に訴える訳にも行かない。」

 其の通りだ。法廷には持ち出すことは難しいが、名誉を握って否応言わさないのには充分である。
 「サア、承知と有れば、茲(ここ)に筆も墨も用意して来たから、再び忍び提灯(ちょうちん)の窓を開いて、和女が名を書き入れさえすれば好い。何も五千ポンド位の金が、常磐男爵夫人の咽喉へ支(つか)える事はない。何の様な報酬でもと、自分から言い出した和女の口で、勿論否やを云う筈もなかろう。サア余り手間取る中に見咎められては大変だ。早く調印して貰おう。」
と事もなげに言い包(くる)めて、早くも証書の下書きを取り出そうとする。

 園枝はやや暫(しば)し、返事を発する事が出来ないで居たが、やがて断固として、
 「金は兎に角、それは私が心に恥じる約束だ、私は自分の気が咎めて、その様な約束は結ばれない。」
と云い切った。


注;明治30年の1ポンド・・・9.7633円
  明治30年頃の1円の価値・・・今の5、000円以上
  明治30年ころの5000ポンド・・・・現在の日本円に換算すれば2億4000万円以上

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