巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune137

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.3.10

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                  百三十七

 重鬢先生が園枝の娘二葉の写真を打ち眺めて、独り何事か呟くのは、きっと仔細が有るのに違いないが、それは暫く後に譲る。
 茲(ここ)に伊太利(イタリア)寧府(ネーブル)を去る事遠くないパラビシニの丘の辺に、荒れ果てた一構えの屋敷がある。是はかつて当国に並び無しと称せられた貴族、牧島侯爵の控え邸で、今から二十余年前迄は、夏となる度に侯爵一家が、羅馬(ローマ)の本邸からこの控邸に引き移り、海から送る軟風に涼を納(い)れ、三伏の暑さを忘れる所としていたので、此の屋敷を消夏園と名付け、座敷から、邸園は云うに及ばず、その外回りに到る迄、手入れに手入れを尽くしていたが、その後重なる不幸の為、当主侯爵がこの園を立ち去ってからは、手入れする人も無く、唯風の嵐、雨の浸(ひた)すのに任せたので、雑草生い茂って門の扉を隠し、樹々の落ち葉は庭の面に重なって、掃(はら)う人も無かったので、朽ち腐れて湿気を催し、屋敷全体が殆ど見る影もなく零落したのは、変わる浮世の習いとは云え、洵(まこと)に哀れで果敢ない次第である。

 今は六月の末で、昔ならば最早侯爵一家が移り来る可(べ)き頃であるが、鳥が啼(な)き、虫が巣を造る外に、生きた物の音信(おとづ)れもないこの旧址を訪れようとしてか、何処からか来てこの屋敷の外廻りを打ち眺め、悄然《しょんぼりすること》として佇(たたず)む一人があった。

 年は六十にも近いだろうか、髪の毛は顔に伸びた鬚髯(しゅぜん)と共に、雪の様に白いけれど、顔の色は日に焦(や)けて赤黒く、漁師かと思はれる程であるが、人品の自ずから高い所があるのは、漁師などでは無い事は確かだ。

 この人唯無言で、荒れ果てた門の辺りを行きつ戻りするばかりだったが、非常に何事にか感じたと見え、深い嘆息の声を洩らし、
 「アア、主人と云い、屋敷と云い、変われば斯(こ)うも変わるものか。昔ならばこの身が此処まで帰って来れば、殿様のお帰りと言って、門の中から転がり出て迎えて呉れる人も有ったが、今はーーー、アアーーー今は」
と半ば呟(つぶや)いたが、後は涙に声も塞(ふさ)がり、言おうとして言う事が出来なかった。暫(しば)し其の胸を撫で下ろした末、

 「この屋敷が何の様に成ったかと、唯一目見度いばかりに、北洋でも死に損ない、又遥々(はるば)と帰って見るとこの通り、結局昔を思い出して悲しさを増すばかりだ。亡くなった妻と、攫(さら)われた娘とが無事で居たなら、どれ程か嬉しいだろうに。オオ、こうなっては、この世界に生きて居る場所も無く、だからと言って死ぬ場所も無い。
 南洋の浪も北洋の氷も、不幸に不幸を嘗め尽くした此の老夫の、味気ない身体を引き取って呉れないとは、好くも好くも因果(いんが)《不運である様子》な事だ。」

と独り語って独り泣き、殆ど立って居る事も出来ない有様だったが、忽ち思い直してか、
 「アハハハハ」
と打ち笑うその声は、生い茂る樹々に籠って、物凄い程に聞こえた。
 「アア、可笑しい、是が老いの繰言と云うものか。斯(こう)も愚痴深い男でもなかったのに。ドレ去ろう。去ろう。この屋敷さえ見れば、もう未練は少しも無い。船の修復が出来上がれば、今度こそ、またと帰らぬ航海に出るのだから、先ず我が屋敷の見納めと云う目的も達した。」

と云い、自ら心引き立てた様に、老いの足とは思われないほど非常に達者に、真に一切の未練を捨てて、後をも見ずに立ち去ったのは、是こそ別人ではなく、当年の牧島侯爵にして、先にヨルドの港から死を決して北氷洋に分け入り、追って行った牧島園枝と、一日違いで掛け違った其の人だと、読む人大方は推量したに違いない。

 是から侯爵はパラビシニの丘を降り、海浜を伝って只管(ひたすら)寧府(ネーブル)の方を指して道を急ぐと、白砂青松総て是昔見た儘(まま)で、浪の音さえ幼い頃から耳に馴染んだその音なので、この様に思い定めた心の中も又自ずから掻き乱れ、足も知らず知らず鈍って来て、フレツタと称する小漁村に達した頃は、進もうとしても進むことが出来ず、
 
 「アア、昔ならばーー昔ならば」
と又も繰言に沈み行く老いの身の上、哀れと云うのも言い足りないくらいだ。
 この様な折りしも、道端を背にして海に向った漁師の家の裏口から、未だ歩みさえ確かと思われない三歳か四歳ばかりの女の子が、守婦さえもなく、唯一人出て来て、道の小石を拾い始めたが、憂きに沈んだ侯爵は、この状(さま)も目に入らず、呟いては一足行き、又行っては呟きながら、殆どこの小児(こども)に躓(つまず)こうとする程に到って、初めて気が付き、

 「オオ是は」
と云って立ち止まったが、見ると二十年前に奪い去られた我が最愛の娘も、丁度是ほどの年頃だったと、その儘(まま)見捨てて去ることが出来ず、余念も無い少女の上に俯(うつむ)きながら、
 「オオ好い子だ、顔を上げてお見せ。」
と云い、その手を取ると、少女は人見知りもせず立ち上がって、侯爵の顔を仰ぎ、何とも親しそうに眺めるかと思われる様子である。

 公爵は猶も何気なく見て居たが、忽ち矢を射る様に心に発し来る一念は、是は迷いか、迷いでないか、この児の顔が我が失った、娘の顔に、似ていると云うことは愚か、其の儘(まま)だった。我が娘が未だ生きて居るならば、今は二十歳の余になるはずであるが、侯爵はそれすらも打ち忘れ、恰(あたか)も我が子に廻り逢った様に喜んで、

 「可愛こと。」
と云いながらその子を抱き上げて抱き緊(しめ)たが、漸(ようや)く心が落ち着くと共に、思えば悲しいことに、これは人の子である。幾等好く似ているとは云え、我が娘である筈は無い。
 「アア惜しい者だ。」
と嘆息して又も下に降ろし、その儘(まま)に立ち去ろうとしたが、後ろ髪が引かれる想いがして、又立ち帰って見直すと、この子の姿は、どう見ても、この辺に住む漁師の子では無い。衣服(みなり)も可なりである上、色の白さ、眼の涼しさは、今まで深窓に育った貴族の子である外は考えられない。




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