巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune22

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2014.11.15

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         捨小舟  前編   涙香小史 訳

                二十二

 縁は異な者、是れ誰が言い初めた言葉だろう。園枝が乞食の境遇で田舎の市場に餓(うえ)凍え、寝る宿さえも無かった頃、誰か良くこの少女が、英国屈指の豪家である貴族常磐(ときわ)男爵の妻になるだろうと思ったことだろう。
 しかしながら、その後唯二年の間に異な縁は結ばれて、自ずから熟して来て、ここに愈々男爵と夫婦の約束を定める事とはなった。

 このような天にも地にも無い歓びの中にも、男爵はここは時間の制限のある学校の庭であることを忘れず、何時まで我が身の歓びに耽(ひた)り、何時までも佇(たたず)むべきでは無いので、徐徐(そろそろ)と園枝を元来た道の方に連れ返りながら、
 「ではもう音楽で身を立てる事は思い止まって呉れるだろうね。」

 園枝は素直なること羊の如し。
 「ハイ、何事も唯貴方の仰せに従います。」
 「オオ、そう言って呉れれば何よりも有り難い。そして和女(そなた)は近日この学校を出なければならないが、その時は、今までの牧島園枝では無く、常磐男爵夫人と為って出るのだ。」

 園枝は嬉しいのか、恥かしいのか、その一言に今までより更に深くその顔を赤くして、暫(しば)らくは男爵を仰ぎ見ることが出来なかった。察するに、未だ男爵に如何ほどの財産があるのかは、知る事は出来ないが、兎に角男爵夫人と云う歴然(れっき)とした地位に定まれば、今までの、当ても寄る辺も無い境遇は、ここに終り、日頃好んで歌っている、捨小舟の歌を思い出すにも及ばない。

 過ぎた儚(はかな)い身を忘れて、初めて人並みに、我が家と言い、自分の内(うち)と云うものがある身の上となる。その果報と嬉しさとを漸(ようや)くここに思い起した為でもあろうか。
 やがて男爵に引かれて元の応接の部屋に返ると、校主汀(みぎわ)夫人は二人が話しが、やや長過ぎると思っていたのか、厳(いかめ)しくこの所に控えて待っていた。

 男爵は夫人が一語を発しない間に、園枝を我が妻に定め、その約束が既に成った事を告げると、校主は非常に驚いたが、我が弟子の出世することは因(もと)より望ましい所にして、後々卒業人名簿の中に、男爵令夫人の名を記せば、学校の位を高くすることは並大抵でないばかりか、他にたいして、私の弟子が常磐夫人と云い、
 「此の学校で卒業し、直ぐに常磐男爵夫人となったあの園枝嬢」
などと云えることは、その身に光を添える元なので、驚くよりも、もっとそれ以上に喜んだ。

 男爵はこの席で、直ちにこの夫人を婚礼の立会い人に定め、園枝の身支度一切の見計らいを夫人に頼むと、夫人は益々栄誉として、それを引き受けた。
 それで、その費用として、幾千の金を託し、婚礼の日取りまで決めて別れ去ったが、是から夫人は自ら奔走し、仕立て屋、飾屋など、交わる交わる呼んで来て、園枝の好みを聞いては、夫々に注文した。

 又一方に男爵は、婚礼の事を何人にも披露しなかったが、同じく粧飾品の店を訪れ、家代々に伝わる金銀珠玉を、或いは磨かせ、或いは嵌め替えさせなどして、園枝に贈ること数知れず。園枝は余りの有難さに、身の程も恐ろしく、或時男爵に打ち向い、

 「貴方の下さるものは勿体無くて、私の身には着けられません。貴方は私の身分を忘れましたか。溝(どぶ)の傍から救い上げた乞食では有りませんか。」
と云うと、男爵は顔を顰(しか)め、
 「イヤ、園枝、以前は以前。今は今。もう過ぎ去った事は云わない事にしよう。私は折角忘れて居るのだから、もう思い出させない様にして呉れなければ。」
と云った。

 是れは男爵に取っては当然の言葉であるが、園枝は唯此の言葉の語調により、さては男爵は我が身を深く愛すとは云え、我が身の素性を賤しんで、恥かしいと思っているのではないだろうか。若しもこの後我が身が実は人殺しの大罪ある、恐ろしい悪人を父として、その許(もと)に育ったと云うことまで知ったなら、男爵は必ず縁を切って、私を投げ捨てることになるに違いない。

 そうだ、縁を切るのは如何程に辛くても、私の素性を且つ恐れ、且つ賤(いや)しみ、男爵家の妻であることに釣り合わない者とされるに違いない。私の身は、未(いま)だに寄る辺無い捨小舟ではないかと、我と我が心に、何と無く心配を引き起こしたのも、果報に満ちての妄想だろうか、はたまた虫が知らせると云う者だろうか。月日進んで、その時にならなければ知る方法は無い。

 是から幾日か後、フルハムと云う所の寺院で、男爵は非常に静かに婚姻の礼を行い、新夫人園枝と共に蜜月の旅として、従者密蔵一人を引き連れて、北部ウエールズを指し出発した。翌日のロンドンタイムスも簡単に、
 「昨日フルハムの寺院に於いて、男爵常磐幹雄氏と牧島園枝嬢の間に婚礼の式が行なわれた。」
と報じただけ。

 しかしながら、この短い雑報も、男爵の甥永谷礼吉の為には、火の文字よりも、もっと恐ろしく見えた。彼は之を読むやいなや、自分が、常磐家相続の見込みが全く絶えたことと思い、この後の思案さえも浮ばなかったので、唯一人力と頼む彼の才子皮林育堂の住居を尋ねて行った。育堂は町尽(はず)れの淋しい所に古い家を借りて、一人の母と共に住み、家の台所を化学試験室に建て直し、常に何事かを試験していた。

 永谷はこの試験室に通って行った。まだ一語をも発しなかったが、一方の卓子(テーブル)の上に、非常に異様な品物が横たわっている事に気付き、思わず恐ろしさに身震した。
 育堂もその品を見られたかと打ち驚き、手早く己の手巾(ハンケチ)をその上に載せ、品を蔽(おお)って隠したけれども、永谷の眼を眩(くら)ますことは出来なかった。

 抑々(そもそ)もこの品を何に使うのだろう。鉄で作った仮面の様なもので、眼の所に硝子(ガラス)を嵌め、人が若し之を被る時は、外から如何なる邪気も入って来ない様に作った者である。永谷は我を忘れ、

 「皮林君、アノ仮面は毒薬を調合する人が被る仮面じゃ無いか。」
と口走ると、皮林は落ち着いて、
 「そうさ、化学の試験に用いる薬は大抵毒薬だよ。」
と答えた。


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