巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

sutekobune82

捨小舟   (博文館文庫本より)(転載禁止)

メアリー・エリザベス・ブラッドン作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2015.1.14

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         捨小舟  後編   涙香小史 訳

                 八十二

  返って説く。園枝夫人は数日の後、再び訪い来る事を約して探偵横山長作の事務所を立ち出たが、昨日まで栄華を極めたのに似ず、今は家も無く一銭の蓄えさえも無い浅ましい身の上となり、之から何処を指して行ったら良いのか、自分でも知らない。真に寄る辺なぎさの捨小舟とは、夫人の為に作った比喩の言葉とも云うべきか。

 若し園枝夫人が、良人(おっと)男爵の家を出る際に、少しでも其の身の後々を、安楽にしようとの心が有ったなら、幾千幾万の大金を持って来る事も、全く思う儘(まま)っだったのだ。
 男爵の妻となる前、男爵から贈られた品だけでも、中等以上の財産を作るのに足りる程で、又婚礼の後男爵から、我が身の自由の財産とし、如何様に使い捨てても、其の使い道を少しも男爵に説き明かすには及ばないとの許しを得て、分け与えられた正金及び預け金も数多有り、これらは総て園枝夫人の随意の所有にして、之を携え去ることは、誰に憚(はばか)る所も無く、良人(おっと)男爵としても、咎める訳にはいかない所だったが、園枝夫人は之をも携えて来ていない。

 其の外、若し夜光珠(ダイヤモンド)の指輪唯一個嵌めて来たとしても、一年や二年の生計(くらし)には困らない程だったのに、園枝夫人は再び人の軒端に寝て、往来に餓え倒れる昔の境涯に返えりますと、男爵の前で言い放った程の決心だったので、唯着のみ着の儘(まま)で、何一つ身には着けず、我が身に不似合いな宝は、総て我が身を辱しめ、我が身を苦しめる元であると思い詰め、汚らわしい物の様に忌み嫌ったのだ。

 唯片手に小型の提革包(さげかばん)一個だけは、携えて来たので、人はきっと其の中に、銀行券でも詰め込んて有るのだろうと思ったかも知れないが、中は唯着替えの肌着二枚と、日頃自分が愛読する音楽の書籍二冊を、納めたただけである。この肌着、この楽譜は、是男爵から与えられた品では無い。広い天地に、園枝が唯何人にも恥じず、真に我が物と誇り得る有りたけの財産である。

 楽譜はかって試験の時、最優等の賞与として学校から与えられ、肌着は婚礼の前、学校を去る時に、校主汀夫人から贈られたものである。此の二品こそ、天下晴れての我が物なので、我が物として人に示すのを恥じず、常磐家を出る時携えて来たのだ。

 横山長作の事務所を出た後も、此の外に一物も無いので、今宵宿として、何処に身を休めたら好いか当てもなかった。誰を頼って何処に行ったら好いか、誠に儚(はかな)い限りである。

 横山長作の命に従い、厳しく此の夫人の行方を見張る為、後に従って来た下探偵は、僅かに数間(5~6m)離れて尾行するが、夫人は一度さえも背後を振り向かず、身に悪事が有って、世間を恐れる人とは見えず、下探偵は怪しんで、此の夫人は何者だろう。衣服(みなり)は非常に質素であるが、其の顔其の姿其の振る舞い総て一廉(ひとかど)の貴夫人である。

 貴夫人であって世を忍び、殊更(ことさら)人目に立たない様に粗末な服に身を窶(やつ)している故(から)は、宿はきっと立派な所に違いない。或は何処かに馬車を待たせて有り、飛び乗って急ぎ去るかも知れない。其の時には、我も又馬車を雇って追って行こうなどと、様々に想像するうち、夫人はとある郵便支局を見て、之に入った。

 其の心は案内書を借り受け、雇い人口入会社の有る所を尋ねようとするにあったが、下探偵は、その様な事まで見抜ける筈はない。しかしながら、此の時日も早や暮れて、係り員が退(ひ)けた後だったので、夫人は其の意を果たす事が出来なかった。
 下探偵が何事かと怪しむ間に出て来たが、其の非常に力を落した様子は、歩む様子が非常に悄然と凋(しお)れる様子から、察せられる。

 夫人は宛(あたか)も、此の先何処に行くべきかを、知らない人の様に、郵便局の外に立ち、非常に深い嘆息を洩らしたが、頓(やが)て四方(あたり)を見廻して、少しの間思案した末、又一方を指して歩み始めた。
 「フム、馬車にも乗らず、何か物を思いながら、そろそろとーーー。この様な尾(つ)け易い相手はない。」
と下探偵は口の中で打ち囁(つぶや)き、

 「併し余り軽く見ると、ツイ見逃す恐れが有る。易しいだけ益々大事を取らなければならない。何でも非常に大切な女と見え、己に尾行を命じた時の横山の顔は、ホンに恐ろしい程であった。」
などと云い、是から凡そ一時間余も歩んで、遂に町ち尽(はず)れにある、非常に静かな巷に出て、生い茂った屋敷の門に至った。

 「ソレ愈々(いよいよ)貴夫人だ。この様な立派な別荘を持っている、フム自身の家でも、何か気に咎める所が有って、急に入りにくいか、悄々(しおしお)と考えて居る。」
 真に夫人は入ろうとして、入る事が出来ない様に、暫(しば)し躊躇(ためら)う様子だったが、漸(ようや)くにして思い定めたか、踏む足も非常に確かに歩み入った。下探偵はやや久しく見ていたが、再び出て来る様子も無いので、

 「ソレ、愈々(いよいよ)是が自分の家だ。」
と独り頷(うなず)き、其の門に忍び入って、門札をフト見上げた。
 これは誰の家だろう。


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