巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime10

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.12

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         第十回‎ 「独身では有りません」

 真に生涯の身を誤るとは、清子の事であるに違いない。下林三郎の素性も知らず、本名も知らず、露程も、これを愛する心も無く、唯だ友子と父との間を割こうとする一心から、自ら求めて彼に、欺かれ、取り消すのに、方法も無い婚礼を行ってしまったとは、全く清き生涯を、濁りの中に、投げ捨てたのと同じことだ。

 素(もと)よりその婚礼は、単に形ばかりの事にして、夫婦と言うべき行いが、有ったわけでは無い。式が済むと同時に、立ち別れたので、婚礼後、彼と交えた言葉と言っても、三言か五言に過ぎず、況(ま)して婚礼の以前と言えども、深く語らった訳では無い。

 彼を恋人としたわけでも無く、婚礼を約束する時にも、少しも恋らしい事を、語った事は無い。恋とは如何(いか)なるものだ。まだそれさえも知らない身なので、婚礼前も婚礼後も、清子の身は依然として清く、依然として世間をも、穢れをも知らない、無垢潔白の乙女である。

 下林三郎とは、事実に於いて、全くの他人である。だからと言って、婚礼の式場に立ち、神の御前に容(かたち)を正して、生涯変わらない夫婦だと、誓ったのは夢では無い。唯だ此の誓いの有る上は、他に何等の夫婦らしい所が無くても、立派な夫婦である。

 人の前、神の前、法律の前には、夫婦ではないと言う理由は無い。或る国に於いては、婚礼を非常に軽い事に思い、容易に結んで容易に解くもあるが、婚礼は、神に立てた、生涯の誓いである。如何なる事があっても、人間の力を以て、之を解き得るものでは無い。

 妻か夫かの死ぬ迄は、別居するとも一心同体である。夫婦では無い他人同士の間に、立ち返る事は何としても、出来得る道は無い。
 之を思えば、自分が軽率に、彼れ下林の言葉に従った事は、後悔するに余りあれど、彼、下林も、何が為に、この様に深く、人の身を誤らせたのだろう。

 深く此の身を愛し、我が物としないで、立ち去るのは、忍びない為とは言え、又この様な偽りを行うのが、悪人の悪人である所であるとは言え、余りと言えば、意地の悪い仕打ちである。今から思えば、彼の言葉や、その挙動から、全て偽りであることは、深く考える迄も無いことであった。

 友子の前に出て、婚礼を披露しようと言った事も偽りである。婚礼が済み次第に船に乗って、此の土地を立ち去ろうと、言った事だけは誠であるが、それも、我が父の許に行く為では無くて、米国とか南洋とか、東洋とか、この国の法律が届かない、別の世界に連れ行って、私を親類にも朋友も、相談相手も無い地位に立たせ、少しも逆らう力が無い身にして、長く自分の意に従わせようとする心であった事は、明らかである。

 そうとも知らず、欺かれた身の愚かさは、言う迄もないけれど、少女の欺き易さに乗じ、これほどまでこの深く欺くとは、非道とも残忍とも、言い様も無い振る舞いである。

 清子は一日、又一日と考えるに従って、この様な事まで自ずから合点が行き、只だ情け無さ、悲しさに、何とかする術(すべ)も知らない。だからと言って、人に打ち明けて相談するのは、恥の上に恥にして、名誉を何より重んじる家に育った身では、到底耐える事が出来ないことだ。

 自ら耐える事が出来る丈は我慢して、愈々(いよいよ)如何(どう)にもならなくなったら、罪深いけれど、我が身を此の世に亡き者とするだけだと、只管(ひたす)ら事の成行きを待っていると、今届いた新聞を手にして、入って来た友子は、清子の益々衰えた様子を見て、

 「オオ貴女は、その様なお顔色で、新聞など読むのは、宜(よろ)しく有りませんよ。」
と言う。
 清「イイエ、新聞を読まなければ、私は片時も気を紛らわせる事が出来ません。」

 友「では私が読んでお聞かせ申しましょう。」
 清「イエ、イエ、後生ですから、私に独りでその新聞を読ませて下さい。
 今朝は何だか気持ちが悪くて、人の声を聞くのさえ、五月蠅いと思います。」

 友子は益々心配そうに、清子の顔を眺めた末、
 「父上のお留守中に、貴女が病気にでもお成りなされば、私は申し訳が有りません。何うか清子さん、ご自分で気を引き立てて、くよくよしない様にして下さい。」
と言って、目の底に涙をの露を光らせ、立ち去った。

 後に清子は恐る恐る新聞を開いて読むに、
 「下林三郎の公判」と題する記事は、他の記事よりも非常に長く記して在り、彼が銀行に住込んで、才智に長けていた為め、非常に速やかに出世した事。

 前支配人が死んだ為め、年の若いのにも拘わらず、株主の眼鏡に叶って、その後を継いだ事。やがて非常に贅沢な暮らしを始め、銀行の金を使い込み、その穴を埋める為、手形を偽造して、大金を騙(だま)し取り、愈々露見が逃れ難くなったこと。

 遂に五万円を盗み、逃亡した事など、先に聞いた所を、更に詳しく記し、更に捕縛後、彼の兄を始め、親戚の人々が銀行に示談を乞い、彼の使い込みを償(つぐな)おうとしたけれど、調査の結果、意外な大金であって、到底力の及ばない事を知ったので、そのまま断念した事などをも記してあった。

 それから宣告の記事に移り、種々の弁論の末、彼が懲役十年に処せられたる旨を記してあった。
 懲役十年と言えば、今より先ずは十年の間は、彼が此の世に現れて、我が身を引き連れに来ることは無いに違いない。その間に、我が身は必ず衰えて、死ぬに違いないと、清子は非常に悲しそうに笑み、更に下文を読み下すと、

 「彼、下林が、此の宣告を受けた時の様子は、通例の罪人が、死刑の宣告を受けた時の絶望より、甚(はなは)だしい程に見受けられた。彼は法廷に泣き伏して、

 「私しだけなら、十年が二十年でも、厭(いと)いませんが、私は独身では有りません。法官閣下、私よりも、此の宣告の為に、生涯を絶望の裏に送る一人が有るのです。罪も無く、何にも知らないその一人を、お憐れみ下さって、何うか寛大な御処分を願います。
 使い込んだ金は、何の様に稼いでなりと、きっと私が返済します。」
と叫んだ。

 清子は読んでここに至り、新聞を取り落とした。



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