yukihime15
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.9.18
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください 。
a:112 t:2 y:0
第十五回 「黙死将軍」
此の夜、家に帰って後も、清子は楠原公爵の事を思い回し、殆んど今更の様に、自分の位置が、大変なことになっている事に気が付いた。今迄は、父の身分が上がったのに合わせて、厭々(いやいや)ながら、社交場に出て、唯だ一通りに、人と交わりさえすれば済む者と思って居たが、若しも此の後、彼の公爵の様に、私を愛する人が多くなったならば、どうしたら良いのだろう。
私は既に人の妻。しかも盗人の隠し妻なので、他人の愛を受けるべきではない。素より、他人の愛を受けたくは無いが、他人が我を愛する事を、防せぐ方法は無い。私は成る丈け、愛せられない様、嫌われる様にと勉めるが、勉める丈け、増々我を愛する人が出て来るのをどの様にしたら良いのだろう。
此の上は、最早や、何所にも出て行か無いのが一番だが、それは父が許さ無い所だ。強いて父の意に背けば、却(かえ)って怪しまれ、何故に年頃の女らしくもなく、社交界を厭がるのだと問い詰められ、終には、身の恥が露見する元ともなるに違いない。
此の恥が若し露見したならば、一刻も生存(いきながら)えて居るべきでは無い。進みも退きも出来ないとは、真に私の今の場合なのだ。
此の場合を切り抜けるには、唯だ、彼の野下三郎と、縁を切るしか無い。
彼れが身分を隠くし、本姓を隠し、詐欺を以て私を陥(おとしい)れた婚礼が、果たして何時まで私を縛り、私の自由を奪う力があると言うのだ。世には離婚の裁判と言う事も有ると聞く。若し私から訴え出れば、裁判の力で、縁が切れるのは確実だ。
その通りだ。確実ではあるが、どの様にして訴え出れば好いだろう。訴えるには、先ず私が、盗人と秘密に婚礼した事を白状し、私が晒して掛からなければ成らない。是が出来る程ならば、何も今迄、苦しみはしない筈なのだ。
嗚呼(ああ)どうしたら好いのだ。どうしようと一夜を煩悶の中に明かしたが、翌日食事の時、父良年は、昨夜の事を語り出し、
「昨晩は、当代第一流の紳士に出会って、実に愉快な想いをした。清子もきっと、此の方と同じように感じたで有ろう。」
扨(さ)ては、楠原公爵の事かと、清子は胸がつかえ、何とも返事も出ないのを、傍らで見て取る友子は、
「アア、あの楠原公爵ですか。本当にアノ方は御身分と言い」
と言い掛けるのを、
良「イヤ公爵は、成るほど、当世第一流だけれど、昨夜初めて逢った方では無く、既に両三度《二、三度》も会合した。私の言うのは、昨夜初めて逢った方だ。」
友「エ、その様な方が有りましたか。」
良「有ったとも、尤(もっと)も遅く来たから、和女(そなた)は、見受けなかったかも知れないが。此の程、印度から帰った陸軍大尉春川鴻と言う人だ。真に当世第一の紳士、イヤ寧(むし)ろ第一の英雄とも言うべきは、此の人だろう。」
清子は物の本でこそ、英雄と言う語を知っているが、今迄実物の英雄を見た事が無かったので、
「その方は、何の様な事をなさったのです。」
良「何の様な事と言って、先年来、印度で現地人の一揆が起こった度毎に、春川鴻の名が新聞に出たではないか。幾度か命掛けの場合へ飛び込み、どれほど人の命を救ったか知れない。
春川の名を聞けば、泣く子も声を止める程の有様だ。そのうちでも、特に名高い話は、自分が一武官と共に、一揆軍に捕らえられ、一緒に惨殺されそうになった時、一武官が絶望の余り、春川を顧みて、
「春川、春川、どうしたら好かろう。」
と嘆き叫んだ。
春川は手も足も縛られたまま、平気の声で、
「黙って苦しみ給え、黙って死に給え」
と答えた。そのうちに味方の援兵がが来て、二人とも助かったが、
黙って苦しめ、黙って死ねとの一語は、軍人社会の話の種と為り、黙死将軍と言う綽名を得た。
此の綽名は恐らく、全世界の軍人社会へ響き渡って居るだろう。
エ、どうだえ、自分が此の上もない責め苦を受け、嬲(なぶ)り殺しに逢う時に、無言(だま)って苦しめ、無言って死ねとは、恐ろしい勇気ではないか。この様な場合に、此の様な決心で、此の様な言葉を吐く人は、叉と無いだろう。
私は以前から、此の黙死将軍に逢いたいと思って居たが、昨夜は図らずも、本望を達した。容貌までも、真に男の中の男だよ。」
清子は黙然として聞き終わったが、
「黙って苦しめ、黙って死ね。」
との言葉は、宛(あたか)も、我が身の今の有様に対する訓戒の語かとも思われ、深く心に感服した。
世にはそのような勇士さえ有るものを、私も如何に苦しくとも、好し黙って苦しもう。死ぬ迄に卑怯な声は発しまいと、独り堅く思い定め、是からは、二度と愁いに沈まず、何事も身の不運なのだから、唯だ成り行きに任せる外は無しと、
事毎に父と友子との指図に従い、パーティーにも夜会にも、春川の言葉を胸に念じて、出席するうち、彼の公爵楠原が、我が身に親しむ事は益々す深くなり、避ければ避ける丈け、益々追って来る様な状態で、到頭縁談の申込み無しには、終わら無いと思われる程と成った。
a:112 t:2 y:0