yukihime17
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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第十七回 「眼と眼」
「貴方が断る事が出来なければ、お出でを待って、私が断りましょう。」
と、父に向かって言い切った清子は、果たしてその言葉のように、此の日の午後、公爵楠原の来るのを待ち、その縁談を自分の口から非常にはっきりと、明らかに断った。
その有様は、管々(くだくだ)しく記すにも及ばないが、公爵の失望は、並大抵ではなく、清子の言葉の、余りに明白にして、少しの未練をも挿しはさむ余地も無いのを見て、暫(しば)し、唯だ首を垂れ、黙然と考える様は、殆んど泣きを入れるかと思われるほどであったが、やがて非常に方法の無い声で、
「此の後、私が何年待ち、如何ほど実意を尽くそうとも、貴女の心は少しも和らぐ事は、有りませんか。」
と問うた。言葉と言い、声と言い、真に生涯の熱情を、一時に集めたかと疑われる程なので、流石に清子も、自分の挨拶が非常に意地悪いのを思い、
「ハイ、貴方を敬い尊ぶ事は致しますが、その上の心は出ません。」
公「何時まで経っても。」
清「ハイ、何時まで経ってもです。どうか見なかった昔と諦め、私の事を諦め、私の事をお忘れ下さる様に願います。」
公「忘れろと言われても、どうして忘れる事が出来ましょう。」
と叫び、今は身を引く力さえ無くした様に、よろめいて立ち去った。
清子は、此の限りなく絶望した、痛々しい様を見て、深く心を動かした。扨(さ)ては愛情とは、これ程迄に心から思い、これ程迄も人の一心を焦がし、鎔(とろ)かすものであるのか。だとすれば私には未だ、真の愛情が発した事が無いのは明らかである。
盗人下林三郎と結婚したのも、素より愛情の為では無い。此の後、若しも意に叶う人を見染め、この様に心からの愛情が起こり、これ程までも、心が焦がれる事になったならば、どうしたら好いのだろう。
人の生涯に、一度は必ず愛情が発する事があると聞く。私は愛情を発しては成らない身である。若し、知らず知らずに愛情の発することが有ったならばどうしよう。アア恐るべきは、我が身の後々である。
今迄は、更に愛情の何たるかを、考えて見た事も無かった。従って、後々自分が、愛情の為に、苦しめられる事が有ろうとは、夢にも思いもしなかったが、今この様な思いを起こすに至ったと云う事は、即ち、その愛情が将(まさ)に発動しようとする時に、近づいたが為では無いか。
清子は真に、自ずから恐れて身震いし、その時にはそうだ、春川大尉の言葉の通り、黙って苦しみ、黙って死ぬより外は無い。何でも、先ず愛情が起こり相だと見たら、自分で厳しく心を誡め、イヤイヤ自分で誡めるられる程なら、真の愛情では無いのだ。
愛は自分の心よりも強いと、物の本にも書いて有る。その愛の未だ強くならない中に、その人と遠ざかり、決してその人の顔をも見ず、噂も聞かない様に、一室へでも閉じ籠り、その人の事を忘れて仕舞えば好い。
丁度公爵へ言った様に、会わなかった昔と諦めて、爾々(そうそ)う、芽萌えの中に、愛情を摘み捨てるのだと、独り予防の道を案ずるのは、健気にも又憐れと言わなければならない。
この様な間にも、楠原公爵が雪姫に断られたとの噂は、殆んど電気が伝わる様な速度を以て、社交界に広まった。以前から雪姫を羨やんでいた親々、娘々はホッと安心しながらも、又呆れて、
「本当に馬鹿では有りませんか。公爵を断って、何の様な恋人が現れるのを待つのでしょう。」
と不思議がる者も有るが、
「イイエ、欲の袋に底がないとは、此の事ですよ。公爵に満足しないとは、今に御覧なさい、大欲は無欲で、虻蜂取らずに終わりますから。」
と罵(ののし)る者もある。
そのうちに又、公爵が絶望の余りに、再び外国へ行くとの噂も聞こえたので、安心と残念さを揑(こ)ね混ぜて、
「それは何にしても、自分が公爵を好かない為、断ることは随意ですが、公爵を外国へまで追い遣らなくても、宜しいでは有りませんか。断るにしても、そこを何とか物柔らかに、旨(うま)く留めて置く工夫も有りましょうに。」
と恨めば、
「そうですとも、又と類(たぐい)の無い鳥ですもの、高飛びをしない様に予防するのが、同じ猟師仲間への義理ですワ。」
など不躾極まる比喩を言って和するも有り、囂々(ごうごう)として鳴り渡った。
是も同じ噂と見え、公園の樹の下に立ち、余念無く語らえる四、五人の紳士があった。その中の一人は、清子が常にその人の言葉を胸に念じて、未だ相見た事の無い、彼の黙死将軍春川鴻である。
春川は敢えて自分からは口を開かない。唯だ他の言う所を聞くのみであったが、甲一人は声高く、
「残念じゃないか。吾々の待ち受けた公爵のパーティーがおジャン成ったぜ。」
乙「何で」
甲「公爵が雪姫に振られたから、絶望して直に外国に行ったのさ、僕の所へは丁寧な断り手紙が来た。」
丙「それは何も君ばかりへ丁寧では無い。前に招待状を出した先々へは、皆同じ文句さ。止むを得ぬ急用で出発するから、遺憾ながら予定のパーティーを、見合すと有っただろう。」
丁「併し丁度公爵が、雪姫の家から出て来る所を見たのは、僕ばかりだろう。本当に絶望して、歩む足も定まらない程だったゼ。」
甲「無理もないよ。公爵と言う身分で、女に肘を食(くら)うとは、思いも寄らないからネエ。」
丙「イヤ、之で併し雪姫の真の値打ちが分かった。」
乙「真の値打ちとは。」
丙「今まで雪姫が、何となく陰気に塞(ふさ)いで居るのを見て、却(かえ)って此の方が、男を引き寄せるのに好かろうと、態(わざ)とアノ様にして居るなどと、疑う者も有ったが、態とでは無い。天性、雪姫はアノ通り気高いよ。」
乙「それはそうだ。雪姫に限って、男に笑顔を見せた事が無いから。」
甲「併し公爵が断られたと有っては、君方が幾等その様に褒めても、及第の見込は無いゼ。」
丁「見込は無くても、腕を振るって見る気に成るネエ。僕は雪姫を以て、近来の最も誠実な、最も心の高尚な美人と、断言するのに躊躇しない。」
余りに褒め言葉が高かったからか、無言だった春川は、初めて口を開き、
「僕は未だ知らないが、雪姫とは何の様な女だ。」
甲「雪の様な清い冷ややかな美人さ。」
乙「年は十八か十九でさ。」
丙「河畑子爵の娘で、本名を清子と言う。」
丁「春川君、君は戈田(ほこた)武男の妻、菱江夫人を知って居るか。」
春「知って居るとも。今度も暫(しばら)く、家へ逗留して居た程だもの。」
丁「アノ夫人を若くして、一層気品を高くして、様子を静かにして、奥ゆかしく、少し鬱(ふさ)がせた様な美人さ。」
春「それは実に大変だネエ。」
乙「と言う中に、ソレ彼所(あそこ)へ雪姫の馬車がが来るは。今此処を通るから、魂を奪われない用意をして、良く見給え。」
その通りに、雪姫の馬車はやって来た。春川はそれと無く、馬車の中を見、目を雪の様に冷ややかな、清子の顔に注ぐと、清子は丁度、春川の名高い言葉を、心の中に唱えて居た際で、此の様に見られて居るとは知らず、
何となく我が顔に、人の眼が照り添うのを覚えたが、傍目(わきめ)も振らない日頃の様に似ず、フト此方(こちら)に向き、春川と目と目を合わせた。唯だ一見にして、生涯に印象を留めるとは、全く此の両人の間であるに違いない。
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