yukihime28
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.10.12
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第二十八回 「学問の有る山番」
十年近く浮世より隠れた身も、父の特別の頼みとあらば、再び浮世に交じらなければ成らないか。それにしても、戈田(ほこた)夫妻からの招きに限って、父が何故特別に重きを置くのだろう。友子は説明し、
「私も良くは知りませんけれど、政治上の意味が有るとの事です。先頃から議会の大問題と為って居る、外交費の議案が、三人か五人の投票で何方(どちら)へでも決する場合なので、是非とも戈田武男さんを、此方へ取り込まなければ成らない。
そう言う訳なので、今度の招待は、決して断る事は出来ない。
それに清子が出席して呉れれば、更に好ましいと、それはそれは非常な父上の所望です。
清「ではその三人か五人の数が満ちる迄は、又外からの招きにも応ぜじなければ成らないのでしょうか。」
友「ナニそうでは有りません。戈田(ほこた)さんさえ此方へ附けば、柳園伯爵も此方へ附き、その外戈田さんや柳園伯の去就を見て、その上で自分の去就を決め様と言って、風を望んで居る人も有りますから、此のパーティーが関ケ原だとか言う事です。
貴女はもう、戈田夫人にも柳園夫人にも、忘れられた程ですけれど、今度行って交わりを温めたなら、両夫人の勢力で、後は必ず旨(うま)く行きます。父上はそう仰(おっしゃ)ってお在(いで)ですよ。
近年、両夫人との交際が遠のいたから、それで戈田も柳園も、自然に吾々の外交策に冷淡に成ったのだと、こう云う訳なので、ナニ、此の外のパーティーには、出るには及びません。唯だ此のパーティーだけへは何うか出て下さる様にーーー。」
「ハイ、その様な大切な訳なら、貴女と父上のお心に従いましょう。」
と非常に気軽く答えたが、若し此のパーティーから、如何なる事柄が、自分に降り掛かって来ようとしているかを知ったならば、この様に気軽くは、答える事は出来なかっただろうに。
レイトン園は、古来詩人の詩にも入り、画人の画にも入った事がある、有名な荘園なので、その景色が優れて居て、その郷の美しいことは、ことさら説くまでも無い。
清子は三日の後、父及び友子と共に、此の荘園に到着したが、主人戈田は、既に五十歳に近く、妻菱江夫人は、昔し全国に轟いた美人だったので、三十歳より上には見えないけれど、既に四十に近いとの事である。
長男は此のほど、大学を終わって、大陸の旅に上り、次は女で、倉姫と云われるが、母夫人と共に、清子に親しむことは並み大抵では無かった。清子は既に二十七歳になったとは云え、是も天の成せる麗質なので、十七歳である倉姫より、多く年嵩(としかさ)とは見えない。
特に浮世から隠れていた八、九年の間に、天然の美は益々発達して、以前は唯だ美しかっただけの者が、今は底も知れないほど、非常に深い美しさと為り、とりわけ、涙を以て洗い上げた顔の面(おもて)は、天上の人かと疑われるほどだ。
此の世では得る事の出来ないほどの、一種の趣(おもむき)がある。誰であっても、見惚れずには去ることが出来ないほどなので、父良年の勢力も、此の清子の美しさの為に、益々増して行く。
逗留僅(わず)かに三日を経て後は、席を共ににする何人も、最早や、彼の外交案の勝利なる事を、毛ほども疑わないこととなった。
三日目の夜、客は座敷の最も涼しい辺に集って、四方八方の話を為すうち、何の事からか、貧民教育の談話に移り、主人戈田(ほこた)は一例を引き、
「イヤ、貧民が学問しても、その学問の用い所が無い、などと云うのは過ちですよ。当園の山番人のうちに、極めて物静かな男が一人ありますが、用事の無い時は、何をして居るかと思い、番小屋を覗いて見ると、悟的(ゲーテ)や窩底(ボルテル)の文集を読んで居るのです。
山番に、独仏(どくふつ)の語を理解する男が有るとは、貧民教育の進歩です。学問の持ち腐れでは有る様ですが、それでも、学問の楽しみが有ればこそ、閑居しても不善を為さず、外の番人の様に、悪い習慣が附かないのです。」
一紳士は之を聞き、
「シテその山番は何処から雇いました。」
戈「それは柳園伯にお聞きなさい。」
座に列なる柳園伯は、
「イイ、私が曾(かつ)てロンドンから帰る道で、行倒れの様に成って居るのを、救ったのですが、途中の事なので、着せる物も無く、当家へ立ち寄って、その事を話ますと、主人がそれでは山番にして遣ろうと言って、直ぐに取り上げたのです。」
柳園綾子夫人も
傍(かたわ)らから、
「成るほど、山番でも、それ程の学問が有れば、自分で何れほどか楽しい事でしょう。」
主人「若し職業を与えれば、非常に役に立ち相です。仏語でも獨語でも、宛(まる)でその国の人の様な音調で話します。」
良年は耳を聳(そばだ)て,
「獨仏の語が、その様に出来れば、外交上にも充分、使い道が有りますよ。姓名は何と云います。」
主人「極めて普通な姓名です。下林三郎と云うのです。」
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