yukihime32
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2023.10.20
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第三十二回 「盗みも愛、人殺しも愛」
清子は森の中に行き、晴天白日の昼中に、下林三郎と相見(あいまみ)えた。清子の顔には、一点も慈悲の色が見えないのと同じく、恐れの色も嘆きの色も見えず、真に人間の一切の感情を離れた面持ちで、殆んど大理石を以て彫(刻)んだ、美人像にも似ている。
此の静かな顔の内に、如何なる心を秘めているのだろうと、下林は測り兼ねて、少しの間、唯だ怪しんで見るばかりだったが、見るに従って、その顔は非常に気高くして、一切の汚れを受けていない様(さま)に対して、犇々(ひしひし)と自分の堕落を感じた者の様に、俄破(がば)と身を地上に投げ、泣き声とも聞こえる程の音調で、
「清子さん、清子さん、今まで十年の余も、只だ貴女に逢い度い、逢い度いと許かり思って居ましたが、この様にお目に掛って見ると、何を云って好いか分かりません。」
清子は極めて無慈悲に、又極めてはっきりと、
「ハイ、私へ一言も云える訳は無いでしょう。年端(としは)の行か無い者と見て、欺き、誑(たぶら)かし、そうして生涯浮かぶ瀬も無い様な目に逢わせた後ではーーー。」
言葉が未だ全く尽きて居ないのに、彼は跳ね起きて、
「アアそれです。もうその様に仰って下さるな。貴女に逢い度いと思ったのも、唯だそのお詫びがしたい許かりにーーー。」
清「詫びの言葉が、有る様な事柄とは事柄が違います。」
三「ハイ、何ともお詫びの言葉と言っても、有りませんが、でも決して悪気から出た事では無く、単に貴女を愛する一念の為にーー。」
清「愛などと汚らわしい。その様な言葉をお用いなさるな。人の生涯を誤らせると知りつつ誤らせ、騙し偽り、そうして陥穽(落とし穴)へ押し落とすのが何で愛です。之が愛なら、盗みも愛、人殺しも愛。一切の酷(ひど)い仕打ちは皆愛です。」
十年の余も積もり積もった怨みは、我知らず清子の口から洩れ、烈(はげ)しいこと火の如く、殆んど罪深い下林の身を、焼き尽くすにも足りないくらいだ。下林は両手で顔を隠し、
「何うにかして、貴女に今までの事を、許して戴きたいと思いましたが、許して下さらないでしょうか。」
清「ハイ、決して、決して、許す事の出来きる様な軽い事柄では有りません。私は若し貴方に残酷に殺されたとしても、これほどまでは恨みません。貴方の振る舞いは、殺さずに生かして置いて、そうして、殺されると同じ程の苦しみを長い生涯へ与えるのです。」
言いつつ下林の様子を見ると、彼は十年の長い刑に、打ちのめされたとも云うべきか、少しも男の気荒な様は無く、清子の一言一言に戦々(ぶるぶる)と震えて居るのは、全く後悔の外に何の念とても無い様に見える。
今が今まで、彼から如何に脅迫せられるか、如何に苦しめられるかと気遣って、充分度胸を定めた清子に取っては、寧(むし)ろ意外の思いをなすべきであったが、清子の心は、唯だ怨みに燃えていて、殆んどこの様な様子には、気も附かない。
下林は更に顔を掩(おお)った儘(まま)で、
「決してその様な、意地悪な心で仕た事ではありません。真逆(まさか)、アノ土地で、捕縛せられようとも思わず、貴女を連れて船に乗り、米国まで落ち延びさえすれば、自分の悪事を貴女には知らさず、そうして心を入れ替えて、善人となり、貴女に何の様な幸福をでも与える事が出来るだろうと思いまして。」
清「成るほど、詐欺や盗みで拵(ながら)えた、汚らわしい資本を以て、私しに贅沢をさせると言うお考えで。アア貴女は私の気質をさえ知らないのです。」
三「イイエ、正直な人になり、正直に稼(かせ)いで、そうして貴女を、誰に逢っても恥ずかしくない、身の上に仕ようと思いました。今更此の様な事を云っても、お聞き入れは無いでしょうが、でも言う丈は言わせて下さい。
真に私はセント、アイナで、初めて貴女を見た時に、アア天が、私を正直な人間に返らせる導師を、与えて呉れたのだと、此の様に思いました。此の清浄な顔に照らされたなら、必ず善心に立ち返る故、今此の少女を妻にすれば、今までの悪事も充分償う事が出来ると、ハイ全くこう思ったのです。」
清「オオ悪心を消し度いと思う為に、私を欺き、陥れ、悪事の上に又悪事を重ねて居たのですね。貴方は善悪を取違えて居るのです。」
三「ハイそう言われれば、そうですけれど、生涯の私の身を清くするには、どの様な手段を以てしても、ここで此の少女を得る外はないと思いました。全く善人に立ち返り度いと云う心が、それほど強かったのです。
若しもアノ時、婚礼の後で、直ぐに捕縛されると思って居たなら、何で婚礼をします者か。婚礼をしては、貴女の生涯を誤らせる者と思い、何れほど辛くても、婚礼せずにアノ土地を立ち去る所でした。唯だ婚礼さえすれば、善人に立ち返えれる者、貴女の生涯をも幸福にする事が出来る者と、一筋に思い詰めたのです。
婚礼の式場を出ると、直ぐに捕まってしまったので、貴女に対し此の上もない意地悪であった様に見えますけれど、その時の心は決して意地悪では有りませんでした。」
清「婚礼の後で、捕まると捕まらないには係わりません。罪に汚れた身を以て、罪の何かと云う事をも知らない少女を欺き、自分を愛しても居ない者を、騙したり賺(すか)したりして、婚礼の式場へ連れて行き、生涯取り消す事の出来ない、「妻」と云う名を負わせるのが、何で意地悪で無いのです。何度言っても、貴方は善悪を取違えて居るのです。」
三「ハイそう仰られれば、全くそうです。ハイそうでは有りますが、どうにかして、善人に立ち返りたいと云うのが、唯一つの願いでした。捕まって牢に入れられて後も、絶望の余りに、時々は自暴(やけ)を起こし、
寧(いっ)そ牢破りを企て、どうせ悪人と決まったなら、太く短く強盗にでも成ろうかと、お恥ずかしながら、此の様な気を起こした事も幾度か有りましたが、その度に唯だ善人になりたいと云う心が勝ち、好く考えて見ますと、しみじみと後悔の念が起こり、
その中でも、貴女に対してした所業が、一番悪いのだと思いましたから、刑期が尽きて世に出れば、第一に貴女に逢い、充分に詫びを延べて、罪を許して貰わなければならないと、是れのみ心に掛けて居ました。
私の此の後の生涯は、唯だ罪亡ぼしにのみ委ねますから、どうか許すと一言仰って、是から後の善人になる張り合いが出来る様に仕て戴きたいのです。私の身は、心からの悪人では有りませんけれど、世間の人ほど善心が強くは無く、誰かが励まして下さらなければ、苦しい時にはエエ、善人で居ても詰まらないと、又此の様な気になります。
今でも時々は、その様な気が起ころうとするのを、自分で抑え切れないのです。ここで貴女から、許すと云う様な優しい言葉をさえ頂けば、是も全く善心のお陰だ、善心の見届けられた為だと、こう思って、何れほど後々の励みになるか知れません。そのお言葉一つで、必ず善人に固まります。」
この様な悪人が、これ程まで、真実に悔悟する事があるのだろうかと、聊(いささ)か怪しまれるばかりに、悔悟の誠を現して嘆き乞うた。
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