巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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yukihime39

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.11.9

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         第三十九回‎ 「大団円」

 清子の手を握ることが出来て、彼れ下林三郎は真に嬉しさに溺れる様に、
 「アア有難い、是でもう貴女が全く私しを、許してくれた事が分かりました。之に附けても私しの偽りの為、貴女に生涯を誤らせたのが、益々お気の毒に耐えられません。私しが欺きさえしなければ、今頃は立派な所天(おっと)も出来、此の上もなく幸福に世を送ってお出でなさっていたろうにーーー」

と云い掛け、ふと又春川の顔を見て、それと気の附く所があったのか、
 「オオ清子さん、先日貴女は、深く愛する人があるのに、私しの為にその人とも分かれた様に仰有いましたが、その人とは若しや此の春川さんではありませんか。」

 清子は少しも躊躇せず、
 「そうです。春川さんです。」
 下林は更に妬(ねた)む色は無く、却(かえ)って安心した様子で、

 「イヤそれでは益々有難い、たとえ貴女から私の罪を許されたとしても、自分の死んだ後迄も、更に貴女に不幸を掛けはしないかと、それのみが気に掛かりまして、実は先刻も春川さんに、余所ながら貴女の事をお頼み申したのです。

 その春川さんが、貴女とその様な間柄とは実に不思議です。それのみか、私しの死に際に、その春川さんもその貴女も、私の枕辺へ来て下さる様に成ったとは、不思議の上の不思議と云う者、全く天までも私しの罪をお許し下されて、こうして死に際の安心を授け下さるのです。」

と寝(いね)たるままに天を拝もうとする様に、その片手を差し延べたのは、少しも偽りの無い誠意に違いない。こうして更に言葉をを継ぎ、
 「余計な申し様かは知りませんが、どうか、私の亡き後は、春川さんに身を任せ、後々を幸福にお暮らし下さい。春川さん、モシ春川さん、此の清子さんは、私と婚礼したとは言うものの、全く私に騙されて、唯だ婚礼の式場へ立ったと言う許かりで、身も心も少しも汚れた所は無く、清い清い乙女です。

 どうか下林と言う悪人が、此の世にあったと言う事を忘れ、清子さんには、何の曇りも無い事と思い、充分な愛を以て、永く清子さんの身をお護り下さい。そうして私に、草場の陰でも我が死後まで清子さんに迷惑を掛けたと言う後悔の無い様に仕て下さい。

 一旦は迷惑を掛けても、死んだ時限りで、清子さんを元の通りの幸いな身にしたと思えば、此の悪人も天国へ浮かばれます。」
 
 何という心栄えの優しいことか。彼れは若し、この様な怪我をもせず、健康の身の儘(まま)で清子に逢って居たなら、決してこのようには悔悟はしなかっただろうが、今は死ぬ身と事が決まり、全く此の世の望みを絶ち尽くしたが為、唯だ後の世が恐ろしい一心となり、春川が評した様に、通例の善人より、更に一層の善心を現わしたたものだろう。

 春川は彼の言葉に、顔にこそ現わさなかったけれど、深く心を動かして、
 「イヤその事は少しもご心配に及びません。此の春川が及ぶ丈の力を以て、清子さんの幸福を計ります。」
 下林は益々細り行く声で、

 「アア私しは水の中に立っている様な気が致します。水嵩(かさ)が次第に増して来ます。アレ、アレ、もう口まで届きます。もう駄目です。物を言うと水が口に入ります。此の身が流されます。」

と言いながら、真に溺れる人の様に、益々清子の手を握り〆めて、
 「何ももう言う事が出来ません。水が水が、顎の上まで登って来ました。唇を、清子さん唇を、唇を。」
と言うのは、最期の接吻を求めているのだ。清子は如何(いか)にしようかと、又も春川を顧みると、春川は充分な憐れみを以て、

 「最期の接吻をお与えなさい。臨終の人の望みは神聖です。」
 清子は仕方なく俯向いて、彼の唇に我が唇を当てると、早や彼の唇は冷たかった。しかしながら彼れは、限りない清子の慈悲に感じたのか、二ッと笑らおうとしたが、笑らう力さえ既に尽き、握っている清子の手をも放して、そのまま息を引き取った。

 この様にして、下林の憐れな命は尽きた。清子は、彼れの笑らおうとしても、笑らうことが出来ない死に顔を打ち眺め、我が身を誤らせた悪人ながらも、これ程迄我を愛していたのかと思うと、不憫の念が限りなく湧き起こって、唯だ一点の珠の様な涙を、彼の顔に注ぎ、更に心の底に動く情けを以て、再び彼の顔に俯向き、その前額に恭(うやうや)しい接吻を施した。

 彼がこのことを知ることができたならば、地の下で感涙を流して居る事だろう。
 此の後は読む人の想像に任せて置こう。管々しく説くにも及ばない。

 この様な所へ、丁度先刻立ち去った、番人の妻が帰って来たので、春川は後の指図を与え、殆んど歩む力も無い清子を、我が手に縋(すが)らせ、戸外(おもて)の暗闇(くらやみ)に出て行った。

 此の翌日は、早や下林の葬式である。春川は人が居ない折りを見、清子に向かい、 
 「兎に角も貴女は、此の葬式を見送るのが当然ですが、見送れば人が様々に噂しましょうから、私が誰も噂しない様にして上げます。」

と云い、やがて他の一同と共に、食堂に集った時、殊更(ことさら)に声高く、
 「清子さん、私しは真にアノ山番を憐れみますので、今日の葬式を送りますが、貴女もお出でになりませんか。」
と云った。

 清子は落ちも無い春川の心遣いに感じ、
 「ハイ」
と細い声で答えると、何しろ客の中の客とも云うべき、春川と清子とが見送ると云うのに、主人戈田(ほこた)も捨てて置かれず、
 「その御親切は、私から御礼を申します。では私も見送りましょう。」

 他の客一同も之に引き込まれ、吾も吾もと言い出し、終に彼れ下林は、生前の侘(わび)しかったのに似ず、棺に入った後は、此の家に来ている英国第一流の身分あり、名誉ある人々に見送られた。

 是から一年の後、彼の墓の四辺には、彼の王時計(とけい)草が生え茂り、レイトン園へ、又一つの新たな古跡を加えた。
 清子も春川も数日の後に、多く言わずして分かれた。

 是より半年を経るうちに、清子の心は次第次第に軽くなった。今にも我が身が、盗人の秘(かく)し妻であることが、露見するのではないかと思い、夜の目も眠る事が出来なかった昔に引き替え、秘密は彼と共に葬られ、彼と共に消え、最早や何の恥じ、何の恐れる所も無い。

 更に我が心を顧みても、少しも自ら罪を犯した所は無く、唯だ我儘(わがまま)が過ぎたため、悪人に乗ぜられて、我が身分にふさわしくない身分を強いられるに至ったとは云え、女の道に於いて欠けたる所が有るわけでは無かった。

 婚礼も婚礼ではなく、夫婦も夫婦では無かったので、寡婦でも無く新婦である。何事も自由の身である。実際にはこれ程迄には思わなかったけれど、何となく天地が広く、晴れ晴れしいのを思うと共に、昔の爽やかな容貌も動作も元に戻り、

 父良年から昔の様に愛せられ、喜ばれるには至ったが、篤(じっくり)と時節を計っていたものか、彼の葬式から十ケ月の後、春川は尋ねて来て、三度目の縁談を申し込んだ。

 清子はどう答えて良いか分からず、
 「私は自分の口からは、縁談に返事の出来る身では有りませんが、何も彼も御存知の貴方が、正しい事とお認め成るさるなら、その認る儘(まま)に任そうと思います。」

 その心には、限り無い愛が籠っていることは、自ずから明白である。更に二か月の後、二人の間に国中が挙(こぞ)って羨む様な婚礼の式を行い、雪姫の雪は消えて花嫁の花と為り、再び社交界に咲出したことは、目出度いことだと云わなければならない。

雪姫 終わり

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