yukihime5
雪姫
作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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第五回 「秘密の婚礼」
野下(のげ)三郎が読んで驚いた新聞の雑報は、何事だろう。それは彼の身の上と共に、後に至って自ずから分かるだろう。
彼は雑報に驚いて、是非とも清子との秘密婚礼を、明日の早朝に行なわなければならないと思い、此の夜、又も清子を人の居ない所に呼び、様々に説き伏せて、遂に之を承知させた。
その主な言いぐさは、一日遅れれば一日だけ、父の心が固まる訳なので、片時も急がなければならない、と言うことに在ったが、更に清子の心を動かす為、非常に巧みに、友子の驚き悲しむべき有様などを、目前に見る様に説き、
「何うでしょう。貴女と私とが婚礼を済ませて帰り、二人で友子さんの前に立ち、そうして貴女の口から、
『友子さん、貴女はこの野下さんに、親しく交わってはいけないと、御親切に気を附けて下さったが、今朝私は野下さんと婚礼を済ませました。
是から二人でオーストリアへ行き、父に逢って、安心させるのです。』
とこう言えば、友子さんは、気絶するほど驚いて、是でもう自分が父上と結婚する見込は絶えたと思い、何の様に悲しむか知れません。エ、貴女の身に取り、是ほど愉快な復讐がありますか。
最も、悲しみの余りに、友子さんは貴女を、引き留めるかも知れません。けれど既に所天(おっと)のある貴女を、他人が引き留める事の出来る筈はなく、貴女は唯だ一言、
『イイエ、友子さん、私は貴女の言葉より、所天の言葉に従わなければなりません。』
と言い捨てれば良いのです。言い捨てて友子さんの悲しむ様を、見向きもせずに立ち去れば、実に面白いではありませんか。私はそれを思うと、オオ面白い、今から体がゾクゾクしますよ。」
などと言った。
清子はまだ、男女の間が如何なる者かを理解していない、十六の少女なので、唯だ友子を憎み、父の結婚を悲しむ念のみの為に、この様な言葉に釣り込まれ、その外には何の思慮も無くして承諾し、翌朝は友子がまだ眠っている間に起き出でて、宿屋の裏庭に出て、露を帯びた草花が、非常に綺麗に咲いているのを、三輪ほど折り取って手に携え、野下三郎との打ち合わせに従って、裏門の所に行くと、野下は早やここに居た。苛立って待っている顔は、草の葉の様に青い。
清「おや貴方は昨夜、好くお眠りに成らないと見え、お顔の色の悪いことは。」
野「ハイ、嬉しさに、寝られませんでした。」
清子が少しでも世間を知って居る女ならば、嬉しさに寝られない者が、この様に血色を失うだろうかと、怪しむべきなのに、その様な念は少しも起こらず、是より相携えて裏門から、林の中を潜(くぐ)り、遠回りして隣村に行くのは、人目を嫌う、野下の警戒心から出るものである。
やがて教会の前に出て、青の厳めしい玄関の様を見て、清子は初めて、結婚が重大な事であることを思い起こし、
「野下さん、私は恐ろしく成りましたよ。」
野下は驚き、
「何が」
清「結婚が。」
野「その様な事は有りません。人は誰でも、一度は結婚をしなければならないものです。」
清「でも結婚には、男女互いに、生涯変わらない程の愛が無くては成らないと、言うでは有りませんか。私は貴方をそれ程愛して居るか居ないか、何んだか自分でも分かりませんもの。もう二、三日は考えさせて下さいな。」
野「では友子さんが、貴女の継母(ままはは)となり、父上を手の中に丸め込んでも、構わないとお思いですか。」
清「イイエそうは思いませんが、唯だ二、三日ーーー。」
野「いけません。今更その様な事を仰るのは、私を欺(あざむ)く様な者です。」
清「イイエ、そうでは有りませんが。」
野「ナニ、婚礼する約束でここまで来て、そうして婚礼しなければ、今までの事が皆嘘になります。婚礼の事で人を欺くほど重い罪は有りません。」
素より嘘偽りと言う事を、深く忌み憎む天性なので、清子は此の言葉に形を正し、
「ハイ、決して嘘などは言いません。婚礼しましょう。」
と固く言い切って、教会の中に歩み入り、自分から野下を引き立てる様にして、神の机の前に立ち、世の花嫁の様に、恥赤らむ事も無く、此の人と生涯一心同体となり、死するまで離れませんとの、固い誓いを立て、結婚の式を終えた。
是で全くの夫婦とはなり、教会を出たが、野下は初めよりも更に青い顔で、
「清子さん、貴女はここで待っておいでなさい。私は宿屋へ行って、荷物を取って来ますから。」
清「エ、荷物」
野「ハイ、ここから直ぐに、オーストリアへ出発しましょう。」
清子は少し約束が違うのを怪しみ、
「では二人で友子さんの前へ出て、驚かせるのは何時ですか。」
野下は宛(あたか)も、当惑する事柄を思い出した様に、
「そう、そう、ではこうしましょう。兎も角、私が先に帰り、荷造りなど致しますから、貴女は一時間ほど遅れて、ゆるゆると此の道をお帰りなさい。そうして友子さんの部屋で待って居れば、十一時には、私がその部屋へ行きますから。」
と言う。是れは或いは、清子をこの辺に徘徊させて置き、自分はとっさの間に荷物を取って来て、清子を宿に帰さずして、無理に連れ去ろうとの計略にではないか。
清子はそうとも気附かず、単に、
「そうしましょう。」
と承諾すると、野下は清子が持って居る草花を、自分の手に取り、懐かしそうにその花弁(はなびら)に接吻して、そのまま宿屋の方を指して去った。
後に清子は、半時間余りも草花を摘みなどした末、最早や好い頃だろうと、同じく宿屋に帰って行き、初め出た裏門を潜り入ると、表門の方には、此の辺には珍しい警察官の姿がちらつき。且つは何やら混雑する事がある様に、宿の下男などが、騒々しく立ち回っている様も見える。
しかしながら、少しも我が身に関係のある事とは、もとより思い至る筈もない。
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