巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

yukihime7

雪姫

作者 バアサ・エム・クレイ女史 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳

since 2023.9.8

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        第七回‎ 「心より強き絆」

 清子は何としても、自分の心が打ち騒ぐのを押し隠して、総てを聞かなければ成らないと、必死の思いで自らを制し、震える足を踏みしめて待つと、あの隣室から来た一夫人は、容赦も無く語を継いで、

 「私は初めから終わりまで見た為に、残らず知る事が出来ました。彼の名は下林三郎と言うのです。野下(のげ)と言ったのは偽名です。初め、ロンドンから来た捕吏《警官》が、番頭に向かい、此の家に下林三郎と言う者が、泊まって居るかと尋ねますと、番頭はその様な方は居ないと答えました。

 その所へ、丁度アノ野下が帰って来ましたが、捕吏はその顔を見て、アア旨(うま)く姿を変じて居るけれど、此奴だと言い、逮捕状を見せましたが、野下は大胆にも、それは人違いでしょうと言って、暫(しば)し言い争いましたが、何と捕吏(警官)は捕吏だけに、旨い事をするではありませんか。

 そうさ、下林三郎には、此の様な口ひげは無かった、と言いつつ、野下の髯を捕らえて、引っ張りますが、付け髭が、ポクリと取れて仕舞いました。アノ髯が付け髯で有るとは、私共は少しも気が附かずに、居ましたが、是でもう野下三郎、イヤ下林三郎は一言の抵抗も出来ず、捕吏の足元に座って仕舞いました。

 実に付け髯の取れた時は、お茶番の様な有様でしたよと言って笑えば、友子も稲葉夫人も、流石に耐(こら)えることが出来ず、同じく打ち笑うと、一人清子のみは、益々顔色を変ずるばかり。

 夫「併しその時の野下、イヤ下林の絶望の有様は、何とも譬(たと)え様の無い程でした。何うせ、逃げ損じて捕まる罪人は、失望するに違いは有りませんが、併し人間の顔に、アアまで深く絶望が現れるものとは、私は今まで思いませんでしたよ。

 エエ、たった一時間遅れた、一時間遅れたと、悔しそうに身を搔きむしりましたが、何でも一時間の中には、出奔すると言う用意をして居たには違い有りません。けれど彼がアアまで絶望したのは、何か外に訳(わけ)が有ったのだろうと、後で皆々そう言って居ました。

 捕吏(警官)さいも怪しんで、貴様は悪人で居ながら、何を今更絶望するのだと問いました。彼の返事が不思議ですよ。「此の苦しみは、他人の知る事では有りません。」と言いました。本当に何でアノ様に絶望したのでしょう。何だか此の言葉に、深い訳(わ)けが有りそうでは有りませんか。」

 その深い訳けを知るのは、唯だ清子一人である。
 友子は此の話の矛先を、挫(くじ)こうとする様に、
 「ハイその有様は、私共も見ましたよ。」
と言う。清子は今、此処で妨げられては成らずと、真に必死の力を出して、

 「その人は何の罪です。」
と問い掛ける声も、非常に切なげである。稲葉夫人は友子に向かい、
 「もう清子さんの耳に、入れない訳にも行かないでしょう。是だけ聞けば、残らず聞いたのも同じ事です。」
 一夫人は力を得て、

 「罪は詐欺と泥棒ですワ。併し身分は立派な者で、エジンバラの旧家の次男だそうです。成るほど下林家と言うのがエジンバラに在るのは、私共も以前から聞いて居ます。年はアノ通り若いけれども、非常な才子で、英蘇銀行の下役を勤め、段々株主の信用を得て、去年の春、支配人に任命されたと言う事です。

 イイエ、是は捕吏(警官)が、此の宿の支配人に説明して居るのを、傍で私が聞いたのだから、少しも間違いは有りません。そうして支配人になると、金が自由に扱える所から、放蕩を初め、使い込みを隠す為に、手形まで偽造して、その挙句が、愈々(いよいよ)偽造手形の件が露見して、捕縛される事に為ると、直ちに銀行の現金を、五万円(現在の5億円)盗んで逃亡したのです。

 初めから数度に盗んだ金は、総高で二十万円(現在の約20億円)以上だと言うことです。実に見掛けに寄らぬ大胆な奴では有りませんか。それから警察沙汰と為って、ロンドンは申すに及ばず、リバプール、を初め船の出る所へは、総て警察の手を廻し、今まで二月ほども厳しく探偵して居たけれど、今まで分からず、イヤ分からない筈ですよ、此の様な寂しい所へ来て居たのですもの。

 貴女がたはご存じでしょう。昨日来た「タイムス」新聞の雑報の末に、下林三郎の居所を、略(ほ)ぼ警察で探り当てた様子だと書いて有ったのを、併し此の宿に居る人達は、アノ野下三郎がその下林三郎だとは、誰も気が付きませんでした。

 稲葉「それにしても何だって、此の宿に一月以上もグズグズして居たのでしょう。此の辺から船に乗って、仏国(フランス)の海岸へ渡る事は、容易に出来た筈ですのに。」

 夫人「そうです、捕吏(警官)もそれを怪しみ、『貴様が此の土地に逃げて来た手筈は、警察でも驚く程だのに、何故今までグズグズして居た。』と問いました。彼は唯だ嘆息して、『イイエ、此の土地へ来たのが運の尽きです。自分の心より強い絆に引き留められたのです。』と言いましたが、心のより強い絆とは何の事でしょう。妙に意味あり気な事を言うではありませんか。」

と言って、問う様に友子と稲葉夫人との顔を見たが、今現にその絆が、戦戦(わなわな)震えて目前に立って居ようとは、清子の外に誰が知ることが出来ようか。



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