巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou107

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百七  愛 三

 守安に逢った頃の小雪の心は、実を言えば同情に飢えて居た。
 此の上無く戎瓦戎に愛せられて、何不足無い身の上とは言え、人も毎(いつ)も同じ。年頃の人が恋しい。若い者は若い者に交じり度い。

 何故と問えば、自分でも説き明かす事は出来ないが、只だ何と無く物足りない。浮いた心では無いけれど、同じ年頃の人を見れば、自然に自分の心が開き、目に見えない糸で引き寄せられる様に、又引き寄せ度い様に感ずるのだ。

 小雪の守安を見たのはこの様な時で有った。小雪の容貌が育ったのみで無く、心も此の様に育ったのだ。今までは父と思って居る戎(じゃん)の傍にさえ居れば、外に誰の顔を見たいとも思わなかった。今はそうで無い。誰かの顔を見たい。誰か年頃の人に逢い、打ち解けて語り度い。こうなるのが天性である。

 天性が此の様に傾き掛けて居る所へ、守安の姿が投じたのだ。丁度露を待って居る花の蕾に、春雨の注いだ様な者だ。開かずに居られる筈は無い。守安の心が動いた様に、小雪の心も動いた。小雪の姿を見なければ守安の心が打ち鬱(ふさ)ぐ様に、小雪の心も守安の姿が見えなければ打ち鬱(ふさ)ぐ事になった。

 そうして一たび眼と眼を見交わした後は、丁度守安自らが小雪の心を、こうだろうと察する事の出来る様に、小雪も守安の心を読む事が出来る如く感じた。詰まる所、心と心とが全く往き通い、照らし合う事に成ったのだ。
 戎の方はそうと迄では思う事が出来ない。けれど何だか書生風の男が、小雪に附き纏(まと)って居た。

 そうで無くても、小雪が日増しに美しく成り行くのを恐ろしい事の様に思い、非常に心配して居た際だから、若しや此の男が後々小雪の心を奪う事に成りはしないかと疑った。既に奪われて居ることまでは知らないのが、彼の切めてもの幸いだ。イヤ却(かえ)って不幸かも知れない。

 それから気を付けて見ると、その男が単に小雪を見る為にのみ公園へ来る事も分かり、更に小雪の後を尾けて、宿の辺まで来て徘徊して居る事も分かった。
 此の時は戎が、第二の住居とする下宿屋に居る頃であった。其れから何の様に宿を引き払い、守安を失望させたかは読者の知って居る所である。

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 戎と小雪との間は、此の後も此の前も上部(うわべ)には大して変わった所は無い。相変わらず親密な親子である。けれど内心はそうは行かない。小雪の心には父よりも心引かれる人が出来た。唯だ隠して居るに止まるのだ。戎の心には一種の疑いが兆した。是も只だ隠して居る。

 けれど隠すだけ益々辛い。小雪は何と無く陰気になった。戎が機嫌を取れば今までの通りに笑いはするけれど、その笑いの何所かに誠の嬉しさで無い所が有る。小雪が笑えば戎は喜ぶ。全く心底から喜ぶのだ。唯だその喜びが長く続かない。今まで彼は余り打ち鬱(ふさ)ぐなどと言う事は無かったのに、今はそれが有る。時々は自分で自分の心を慰めることが出来ない様子で、独り散歩に出て、夜の更けるまで帰らない事も有る。

 彼の此の様な心中は誰も察する者が無い。打ち明ける相手も無い。
 唯だ小雪の手を引いて外へ出るのは、朝の間だけだ。ヂャック寺の朝の説教を聞きに行き、其の途中で貧民に金を遣るのだ。是だけは彼が何の様な事が有っても止める事が出来ない所である。

 此の様にして居る中に、彼の手鳴田の「陥穽(おとしあな)」の一条が起こった。戎は全く九死の中に一生を得、蛇兵太にも捕まらずに帰る事が出来た。
 其の翌日から彼は、腕の火傷の為に病人の状態と為り、伏し床に就いた。何して火傷したかは小雪にも語らない。彼の全快までには凡そ三十日ほど掛かったが、其の間小雪が戎を介抱したことは、余ほどの孝女で無ければ真似も出来ない程であった。

 薬から食事から包帯までも自分で引き受け、時々は歌をも歌い、楽をも奏して戎を慰めた。戎は自ら呟(つぶや)いた。
 「アア傷のお陰でこの様な嬉しい日を送る事が出来る。手鳴田は恩人だ。」

 真に病臥の三十日の間が彼に取っては、今までに無い天国であった。彼は飽くまで小雪の顔を眺め、小雪の親切を受け、小雪の優しい言葉を聞いた。けれど此の傷が直れば何うしようとの、心配が折々は心に浮かんだ。彼は小雪の此の親切を受けて居る間に、死に度い。小雪の介抱の中に死ぬことが出来れば、過ぎ去った幾十年の辛苦も、充分の果報を得たと言う者だ。

 併し天が此の果報を彼に許さなかった。彼の生得健全な体格は僅かに三十日にして、彼を無病の人とした。のみならず彼の知らない所に、彼の最も心を痛める事柄が熟しつつあった。彼は到底不幸の人だ。



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