巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou129

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.8. 8


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百二十九 蛇兵太の最後

 蛇兵太は全く戎瓦戎の手に落ちた。是から射殺されるのだ。
 真逆(まさ)か家の中では銃殺が出来ないので、戎は縄の端を取って蛇兵太を引き立てて家の外に出た。外はもう死骸など散り乱れて、全く堡塁の落ちる間際と為って居る。
 「堡塁の落ちる十分前に貴方を射殺して上げます。」
と言った首領の言葉はここに履行せられるのだ。

 戎は堡塁の方を見た。ここには守安が五六の同士を励まして死に物狂いに戦って居る。何うした機(はず)みか守安も此方を振り向き、戎と蛇兵太との姿を見た。此の時の守安の顔は血塗(ちまみ)れである。もう軽くは無い手傷を受けて居るらしい。戎は此の様を見て、顔色を変え、少し躊躇したけれど、直ぐに守安の方へ背を向けた。

 何所へ連れて行って殺そうか。もう此の塁は四方八方殆ど蟻の出る道も無い迄に囲まれているから、遠くへ行く事は出来ない。戎は四辺(あたり)を見廻したが、向こうの方に路地ががある。これ幸いと其処に入った。路地の中には取り片付けた死骸が重なり、憐れむべき絵穂子の顔も見えて居る。其れに目を留めた蛇兵太は、
 「アア此の女も死んだのか。」
と呟いた。

 直ぐに戎は彼を引き据え、銃を取って彼の目の前で丸込めして、
 「コレ蛇兵太、此の顔を知って居るか。俺は戎瓦戎だ。」
などと必ずしも言い聞かせる必要は無い。蛇兵太は最後の覚悟を決めた様子で、
 「サア讐(かたき)を打たれましょう。」
と促した。けれど戎は銃を置き、更に大刀(大ナイフ)を取り出して、其の刃を開いた。アア彼は銃殺に満足しない。切り刻んで腹を癒す積りと見える。流石の蛇兵太も之には慄(ぞっ)として、

 「フム銃を以て人を殺すは、兵士のする事です。牢破りや泥坊が人を殺すには、成る程刀の方が似合(にあ)わしいでしょう。」
 無口の蛇兵太がこれ程までに言うのはよくよくの事である。
 咄嗟(とっさ)に戎は蛇兵太の背後に廻り、忙しく刀を使い始めたが、高手小手(たかてこて)の縄を悉く切り解き、

 「サア是で貴方は自由です。何処へでも早くお去り成さい。」
 蛇兵太は立ち上がった。けれど余りの驚きに一語をも発する事が出来ず、口を噤(つぐ)んだまま大地を見詰めた。彼の生涯に是れほど驚いた事は無い。彼は深く深く心が騒いで、暫しは自ら押し鎮めることが出来ない様子である。

 戎は言った。
 「もう此の塁は逃げ出る隙は有りませんけれど、貴方は政府の人ですから幾等官兵に咎められても平気です。サアお去り成さい。私は迚(とて)も立ち去る事は出来ず、多分は半時間と経たないうちに、此の辺で死ぬでしょう。併し若し私が生きて帰る事が出来れば、アミー街七番地が私の家で、星部と言う名で住んで居ますから、毎(何時)でも捕縛にお出で成さい。」
 吁(ああ)、戎は本当の所番地を教えて居る。彼は再び家へ帰る気は無いのかも知れない。其れにしても此の蛇兵太をここで殺さずに放すとは、余りに愚かな仕方である。

 けれど良く思えば不思議は無い。戎は人を殺す事をしない。先刻屋根の上の敵兵を狙撃した時なども、三人をば三人とも其の制帽を射飛ばした。彼の狙いは驚くべきほど確かである。けれど彼は敵の身体(体)を傷附けなかった。引き続いて今が今まで、一方ならず働いたけれど、人を殺すと言う事は決してしない。

 其れなら彼、何の為に此の塁へ来たのだろう。其れ迄は分からないけれど、彼は人を助けこそすれ、傷附けるのは日頃から忍びない所だ。
 漸くにして蛇兵太は言葉を発する事が出来て、
 「良く此の後を用心なさい。」
 是が蛇兵太の蛇兵太たる所だろう。

 「今度汝を捕らえるぞ。」
との語気が自ずから現れて居る様だ。
 戎「サアお去りなさい。」
 蛇兵太は去ろうとして、思い出した様に振り向き、
 「貴方の住所はアミー街だと言いましたね。」
 戎「ハイ、七番地です。」
 放す方も放される方も全く尋常の人では無い。

 蛇兵太は胸のボタンを掛け直し、着物の皺を伸ばしなどした末、悠々と立ち去った。 
 戎は静かに其の後で銃を取り上げ、空に向かって之を発射し、そうして塁の方に帰り、今しも家の中から出て来た首領に向かい、単に
 「事済みと為りました。」
と報告した。

 成る程事済みに違い無い。イヤ果たして是が本当の事済みだろうか。
 其れは扨(さ)て置き、守安は自分の身の危急の場合であるけれど、ちらりと見た蛇兵太の事が気に掛かった。彼は曾て蛇兵太から拳銃を借り受け、其れを還しもせずに今まで彼を避ける様にして居たのだから、此の様な際でも聊(いささ)か済まない思いが有る。エンジラの姿を見るが否や問うた。

 「今のは政府の探偵では有りませんか。」
 エンジラ「そうです。射殺しに連れて行ったのです。」
 守安「其の名は」
 エンジラ「蛇兵太」
 此の問答の所へ丁度戎瓦戎が事済みの旨を報じて来たのだ。扨(さ)ては早射殺してしまったのかと、守安は全身の血が冷たくなる様に感じ、我知らず身震いした。是が自分の死に時の来た知らせでは無かろうか。


次(百三十)へ

a:20 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花