巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou133

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   百三十三 哀れ戎瓦戎 一

 守安が倒れた時、誰だか来て彼を捕らえたことは既に読者の知る通りである。其の時守安は未だ死に切らずに居て、夢の様に思った。
 「アア俺は敵に捕らわれた。之で生き返れば更に銃殺せられるのだ。何うか此のままで死ねば好い。」
と。

 彼は其の望み通り死んで了(しま)ったのだろう。自分でも何事も知らなかった。
 全く彼は捕虜と為った。けれど敵の捕虜では無かった。彼を捕らえたのは敵兵で無く、戎瓦戎だ。彼は戎瓦戎の捕虜と為ったのだ。
 嗚呼、戎瓦戎は何の目的で此の堡塁《砦》へ来たのだろう。

 彼は戦うけれど、人を殺すと言う事は決してしない。彼は幼い頃から射撃の名人であった。貴族の所有する山林に忍び入って、密猟などして居た為に、少しの罪をも非常に重く罰せられるに至った次第は、此の書の初めに説いた通りだ。若し彼の精密な狙いを以て敵を射殺す気になれば、幾十人の命を奪い得たかも知れない。けれど彼は其れをしない。

 万々止むを得ずして屋根の敵兵三人を射た時なども、三人の帽子を一様に射飛ばして逃げさせたのに留まる。彼は人を助ける外に目的は無い。彼は全くの慈善家だ。善人の中の善人だ。此の堡塁へも人を助ける為に来た。殺す為に来たのでは無い。

 ここへ来てから彼が何れほどの事をしたかは、誰も知らない。銘々皆戦いの方にのみ気を取られて、戎のする事柄に振り向いて見る暇が無かった。けれど戎は誰にも出来ない事柄を、誰よりも余計に勤めて居た。彼は倒れる人の有る度に、直ぐに其の死骸の所に行き、之を抱き上げて人の邪魔に成らない様な所へ運んで行き、死骸は死骸で積重ね、未だ命の有るのは其の傷に包帯を施したり、痛む所を撫でて遣ったり、今の世の野戦病院のする仕事を自分一人で遣って居たのだ。

 此の堡塁の落ちて後に、官兵等が非常に驚いたのは、死傷兵の良く行き届いて居た一事で、今の世までも軍談家の話の種と為って居る。
 この様に忙しくは働きながらも、彼の一眼は絶えず守安に注がれて居た。彼は誰を助けるよりも守安を助けに来たのだ。

 彼の身として守安を助けることは、人情として出来る所だろうか。神の外は決して出来ない事柄だと言っても好い。守安は何者だ。彼れの敵である。敵も敵、彼の掌(て)の下(うち)の珠(たま)と育て、自分の命よりも貴しとして居る小雪の心を奪った敵なんだ。彼は之が為に泣きもした、恨みもした、怒りもした、嫉妬の念を燃やしもした。

 嫉妬の念に夢中と為り、守安から小雪への手紙を揉み潰し、其の儘(まま)守安を討ち死にさせ、小雪を連れて其の身は予定の通り英国へ行き、何の邪魔者も無い世界で、小雪を自分の者として、安楽に老い先を送ろうと言う様な心は毛ほども起こらなかった。若し通例の人の情から言えば、此の心を起こすのが当たり前なんだ。

 特に彼れと小雪との今までの成り来たりを良く考えれば、彼がこの様な心を、起こせ起こせと彼に説き勧める様に出来て居るのだものを。
 けれど彼は此の心を起こさない。守安の手紙を家に入って再読すると共に悟った。殆ど身体(体)の揺(ゆら)ぐほどに且つ悟って且つ感じた。

 此の手紙で見れば、小雪と守安との間には婚礼の約束まで出来て居るのだ。知らない間は兎も角も、既に其れと知った以上は、小雪を我が娘の様に育て上げた此の身として、何うして知らない顔で居られよう。何が何でも守安を助けなければ成らない。助けて小雪と夫婦にして遣らなければならない。

 辛い思いでは有るけれど、若し此のままに守安を死なせては、小雪の生涯の幸福を死なせるのだ。
 此の身が真に小雪を愛する上は、小雪の心を此の身の心としなければ成らない。小雪が守安の死を悲しむだけ、此の身も守安の死を悲しみ、そうしてたとえ救うことの出来ないまでも、救うのに力を尽くして見なければ成らない。自分の身は弾丸に当たって死するとしても、厭(いと)うて居る場合で無い。

 此の心が神の心とも言うべきだろう。人間には有り得る心では無い。彼は少しの間に此の心が決した。直ぐに其れ其れの用意をして戦場に馳せ附けた。
 けれど良く思えば、戎よ、余り軽はづみと言う者では無いか。戦場で若し丸(たま)が中(あた)り、自分の身が守安と共に死んで了(しま)えば何うする。小雪は此の世に唯一人の孤児と為るでは無いか。

 誰が小雪の後々の幸福を計って遣るか。実は彼自らも此の様な事を思わないでは無い。けれど仕損じの有ることを口実として、当然の務めから尻込みするのは真の義人で無く、真の善人では無い。彼は堅く信じて居る。

 自分の身に少しも蟠(わだかま)る私心が無くして、唯善の一心に凝固まって猛進すれば、必ず神が守護して下さる。弾丸の中るのは心に黒い所が有るからの事である。白い中に黒い所を点ずるのは、無形的と言う者だ。若し丸が当たるなら、心の黒い所が取り切れない為である。

 何と言う確信だろう。けれど彼はたとえ自分が死んだとしても、成るたけ小雪が困らない様に、出来る丈の手当をして家を出た。自分の心に若し黒い所が有るならば、射殺されるのが当然であると、彼は殆(ほとん)ど安心して居るのだ。


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