巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou19

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.4.19


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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   十九 責道具

 女が職業を失えば、賃仕事の外に道は無い。華子は賃仕事を始めた。兵隊の着るシャツを縫うのだ。毎日十七時間づつ縫って、凡そ二十四銭の賃が得られる。その中で二十銭は娘小雪の養育料に送らなければ成らない。一日の暮らしが只(たっ)た四銭、稼ぐのは十七時間、是で何うして体が続こう。

 前から華子は、巴里以来の苦労に、何所か内部を痛めたと見え、時々咳が出て居たが、此の頃に成ってそ咳が益々出る。医者に見せれば必ず肺病の下地だと言うのだろう。併し日に四銭では養生が出来ない。のみならず食う事も良くは出来無い。自然と小雪への養育料も後れがちに成った。

 けれど意外に人間は苦労に耐える者だ。食う物も減らし、着る物も減らし、朝の六時から夜の十二時まで針を持ち通して、幾月をか経たが、娘小雪の預かり主、彼の手鳴田から小雪に綿の入れた胴着を着せなければ成らないので、十法(フラン)の金を送れと言ってて来た。此の金が何うして出来よう。

 けれど自分の身が困窮に沈めば沈むだけ、益々子の可愛さが増して来る。実を言えば、唯娘の可愛さのみに、困窮を耐えて行く事が出来て居るので、何としても此の金を送らなければ成ら無い。

 此の夜華子は理髪師の店に行き、我が髪の毛を解いて見せた。根からそっくり刈り取れば十法(フラン)に買い受けると理髪師が値踏みした。直ぐに其の場で刈取らせて十法の金を受け取り、之を以て胴着を買い、直ぐに手鳴田へ送って遣った。

 手鳴田は見込みが違った。金で来るだろうと思ったのが、、品物で来たのだから、大いに怒って直ぐにその胴着を自分の娘絵穂子(エポニーヌ)に着せた。小雪は依然として寒さに震えて居る。併し華子はそうと知ら無い。きっと小雪が暖かに成っただろうと安心した。

 そうして自分は頭巾を被って暮らしたが、こうなると世の中を恨まずには居られ無い。此の様な景状(ありさま)に落ち入ったのも、結局は斑井市長が、自分を解雇した為だと、何も知ら無い市長を憎む事に成った。此の時までは、自分の貧窮な姿に恥じ、人に見られるのも嫌がっていたけれど、もう恥をも忘れた。自分で段々と自分が恥知らずに成るのを感じて、
 「何に構う者か。」
と呟(つぶや)き、心の中に起こる情け無さを揉み消した。

 そうして外へ出ても殊更反り返る様にして、頭を高く上げて歩き、顔には常に、世間を嘲(あざけ)る様な笑みを浮かべて、偶(たま)に斑井工場の辺(ほとり)などを通る時には、故(わざ)と窓下で鼻歌などを歌った。
 此の様にして終に、世に不貞腐れなど称せられる堕落女が出来上がるのだ。

 髪の毛を切ってから半年と経ない中に、手鳴田から又難題を言って来た。今度は小雪が疫病に罹ったから、薬代として四十フラン送れと言うのだ。早く薬を飲ませなければ、死ぬかも知れないと書き添いてある。一日四銭で暮らさなければ成らない身に、此の金が何して出来よう。

 華子は余りの事に、少し気でも触れたのか、声を放って笑った。そうしてフラフラと町に出て、何所と言う当も無く歩んで居たが、弱い者を窘(いじ)める社会の責道具は、何所までも備わって居る。町の或所に、屋台の様な店を出して、人の歯を抜いたり、創薬《傷薬》を売ったりする、旅から旅の香具師(やし)が有って、面白い口上を述べ、往来の人を呼び止めて居る。

 華子は外の人と共にその店先に立ち止り、口上を聞いて笑ったが、忽ちその口許に目を附けたのは、香具師の親方である。彼は不躾に華子に向かい、
 「アア姉さんの歯は美しい。何うです、前歯の揃ったところを二本だけ私に売って呉れませんか。丁度その様なのを欲しいと思って居た所だから。一枚に就き二十円、二本で四十円に買いますが。」

 華子は恐ろしさに顔色を変えた。傍に居た一人の老婆が、
 「此の子は何と言う仕合せだろう。売っておしまいよ。」
とて、歯の無い歯齦(はぐき)を露出(むきだ)して羨んだ。
 華子は忽ち逃げて帰った。けれど、その恐ろしさから少し正気を回復した。

 考えて見ると浮々(うかうか)して居られる場合で無い。我が子が疫病で死に掛かって居るのだ。何とか工夫をしなければ成らないと、再び手紙を取り出して、読め無い目で打ち眺め、更に隣家へ持って行って、何時も賃仕事を分け合って居る、親切な老婦人に読み直して貰った。

 老婦人は言った。
 「何度読み直したとて、先刻私の読んで上げた通りだよ。四十円の金が無ければ、小雪が死ぬと書いて有るのさ。」
 華子は家に帰って、夜に入るまで一人で泣いた。そうして夜の十時頃である。何か思案が決まったのか、強い酒を多量に呑んで、その勢いで家を出た。尋ねて行くのは昼間見た、彼の香具師の宿であった。

 此の翌朝、毎(いつ)もは早起きの華子が起き出て来ないので、親切な隣家の老婦人が、病気ででも有るのかと怪しんで、華子の家に入って見た。華子は寝床の中に座って床の上を見詰めて居る。殆ど老婦人の来たのにも気が附かない様に見える。

 老婦人はその顔を見て驚いた。昨夜分かれた時までは、頭の毛こそ短かったが、未だ若い愛らしい美人の面影をを留めて居たのに、一夜の中に相貌が全く違って、老婆かと見誤れる様に成った。

 「先(ま)ア、何うしたのだよ。華子さん」
 華子は一言も発しない。唯だ床の上に指を指した。見ればその所に、二十円の金貨が二つ光って居る。老婦人は又驚いた。
 「此の金貨は、エエ、本当の金貨では無いか。」
 華子は初めて答えた。
 「ハイ、小雪に遣るのですよ。」

 声までも老いて居る。のみならず唇が腫れ上がって其の両側へ血が滲(にじ)み、口の中には前歯の所に黒い穴が開いて居る。
 間も無く華子は四十円を手鳴田へ送った。けれどその実、小雪は疫病でもなんでも無かった。

注;明治38年の1円の価値を現在の12,000円とみなす。

  歯の代金40円は現在の約48万円

   



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