巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou21

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十一 警察署

 直ぐに華子は蛇兵太に引き立てられた。悶(もが)いても仕方が無い。警察の力に勝つことは出来ない。そのまま警察署へ連れて行かれた。
 何うなる事かと、華子は震い戦(おのの)いて居たが、先ず暗い冷たい敷石の床に引き据えられた。ここは警察の審問所である。

 此の頃の法律に依ると、市中に起こる喧嘩や争いなどは、総て警察署で処分した。即ち巡査部長が裁判官の様な者である。蛇兵太(じゃびょうた)が人に恐れられるのは無理も無い。彼は先ず部下の巡査を呼んで、華子を床の上に引き据えさせ、その身はテーブルに向かって筆を取り、一種の書面を認(したた)め始めた。

 此の書面は監獄の長に宛てた者で、即ち華子を牢に入れる積りなんだ。間も無く認め終わって巡査に向かい、
 「此の書面を持って、その女を監獄へ連れて行くのだ。」
と告げた。監獄と聞いて華子は跳ね上がる様に起き、何事をか言おうとした。けれど蛇兵太がその暇を与えない。

 直ぐに彼は華子に言い渡した。大抵の人が縮み込む様な、冷たい厳かな声で、
 「汝は今より六カ月、入牢するのだ。」
 此の語を聞いた華子の驚きは、見るも恐ろしい。
 「エー、私を六カ月の入牢。何の為です。何の罪です。」
と叫んだが、直ぐに泣き声と為って床の上に伏し、

 「それは酷(ひど)い。それは酷い。余(あんま)りと言う者です。何も私は牢に入れられる様な、悪事を働いたのでは無いのです。私が牢に入れば、誰が小雪の養育料を払います。私は毎日稼いで、娘小雪を養わなければ成りません。私を牢に入れるのは、親子二人を殺すのです。許して下さい。許して下さい。部長様、部長様。

 成るほど私が紳士に掴み掛かったのは、悪いかも知れませんけれど、、腹立ちの余りに前後を忘れましたのです。何の咎(とが)も無い私しを、向こうが散々に罵(ののし)りまして。それも私が知らない顔して耐(こら)えて居ると、今度は出し抜けに往来の雪をを取って、私の襟首へ投げ掛けました。

 幾等身分が違っても、悪いのは向こうです。私は余りの事で、我慢が尽きたのです。それでも達って私が悪いと仰(おっしゃ)れば、私はあの方に謝罪(あやま)ります。ハイ謝罪りますから、何うか牢に入れる事だけは許して下さい。娘小雪が可愛そうです。

 私から養育料を送らない事に成れば、預り主の手鳴田と言う男は、少しも慈悲などの無い奴ですから、直ぐに小雪を叩き出します。後生ですから部長さん、何うぞ、何うぞ。」
と泣いて願い、そうして後は、怪しい咳に咽(む)せ入った。

 全く此の事は、華子の悪いのでは無く、客が悪い。特に華子の事情を考えて見ると、石でも涙を注ぐだろうが、唯蛇兵太のみは涙を注がない。彼は静かにテーブルから離れ、
 「六ケ月の入牢と言う言葉が通じたのだな。通じたならサア牢へ。」

 華子は床に蹙(しが)み附いて、
 「お慈悲です。お慈悲です。」
と繰り返した。
 蛇兵太
 「サア牢へ。」

 此の部屋の隅の暗い所に、先刻から立って居た一人がある。此の人は彼(あ)の騒ぎの有った料理やの辺から、華子と蛇兵太との後に随(つい)て来て、此の土間に入り、先ほどから黙(だま)って様子を聞いて居たのだ。多分は群衆の中に交じって居た人なんだらう。そうして、今や愈々華子が牢に引き立てられようとするのを見て、耐(こら)えかねたと言う様子で、突(つ)と隅の方から歩み出て、

 「少しの間、待って下さい。」
と言った。是れが何者だかは知らない。
 何を頼みに巡査部長のする事を遮るのだろう。
 蛇兵太は怪しんで、その人の顔を見た。他で無い市長斑井(まだらい)父老である。

 蛇兵太は驚きもし怒りもした。けれど自分より役目が上だから、敬(うや)まわ無い訳には行かない。彼の目には唯官等の高下が有るのみだ。高貴の人は貴い。故に礼をする。下等の者は賤しい。故に叱り附ける。是が彼の標準なんだ。彼は剛(ぎこ)ちなく帽子を脱いで一礼しつつ、

 「貴方のお言葉では有りますけれど、斑井市長!」
と、待つに待たれないとの旨を述べようとした。
 「斑井市長」との名を聞いて、忽(たちま)ち様子の変わったのは華子自身である。華子は兼ねて此の市長を、誰よりも憎むべき人だと思い詰めて居る。

 今ここへ現れたのは、更に此の身へ重い仇を為す為だろうとでも思ったのか、積る恨みを輝く眼に溢らせて立ち上がり、巡査が静止する間も無い中に、突々(つかつか)と市長の前に行き、その顔を満面に見詰めて、

 「オヤ斑井市長さんと言うのは貴方ですか。」
と叫んで、更に大声に打ち笑った。その笑いには、この様な女の外は真似(まね)も出来ない様な、軽い侮蔑の響きを含ませて有る。確かに市長に向かって、恨みを返す積りなんだ。全く自棄(やけ)の極度に達して居るのだ。

 爾(そう)して、
 「ヘン、市長さんには是で沢山そうだ、」
と言いつつ、斑井父老の顔に唾を吐き掛けた。アア侮辱、侮辱、是ほどの侮辱が又と有り得ようか。
 市長は静かに自分の顔を拭ぐった。そうして非常に穏やかに。蛇兵太に言った。

 「此の女を放免(ゆる)してお遣り成さい。」
 本当に驚くべしとは市長の忍耐である。



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