巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou22

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   二十二  市長と華子

 蛇兵太(じゃびょうた)の目から見ると、華子の様な賤しい女が、市長に向かって、直接に口を利くのさえ不敬である。況(ま)して市長の顔に、唾を吐き掛けるとは、何と言うことだろう。真に世界が転倒したのだろうかと怪しんだ。

 それでさえ有るのに、市長が此の不敬を怒りもせず、静かに顔の唾を拭い、そうして
 「此の女を放免(ゆる)してやれ。」
と言うに至って、蛇兵太は全く喪心した。驚きの余りに、最早驚く力をさえ失った。

 けれど華子とても殆どその通りだ。
 「此の女を許してやれ。」
と言った言葉が、まさか市長の口から出たとは思わない。きっと蛇兵太が言ったのだろうと思った。

 彼女は叫んだ。
 「エ、エ、私を許して下さる。オオ、そうで無くては成りません。私は悪い事をしたのでは無いのですもの。私が牢に入れば、娘小雪が死にますもの。オオ有難い、部長さん、此のお慈悲は忘れません。忘れません。

 ナニ私は恩を忘れる様な、悪人では無いのです。此の様に成り果てたのも、此の市長が悪いのです。私を工場から追い出したのが元なんです。それが為に私は、今は借金ばかりの身と為って、家主にも手鳴田にも、百円(現在の約120万円)以上の借りが出来、仕方無しに此の様な、情けない身の上に成ったのです。」

 斑井市長は、静かに此の言葉を聞いて居たが、深い憐みを催したと見え、ポケットから財布を取り出して開いた。けれど生憎に財布は空だ。彼はそのまま華子の傍に寄り、
 「シテ、借金はと言うのは、今は何れほどに成って居る。」

 華子は又腹立たしそうに狂った。
 「誰が貴方に借金の事など言いました。大きなお世話ですよ。」
と言い、まだ辱め足りないと見え、巡査に向かい、
 「巡査さん、巡査さん、貴方は好く御覧成さったでしょう。私が此の市長の顔に、唾を吐き掛けてやったのを。アア好い君だ。是で私は帰りますよ。部長さんから許して戴いたのですから。」
と言ってそのまま出口の所に行き、戸の引手に手を掛けた。

 この時までも部長蛇兵太は、驚きの余りに石像の様に成り、身動きも為し得ない状態で有ったが、忽(たちま)ち声を発した。
 「誰が此の女を放免すると言った。」
 華子は声に驚いて引手を放し、又た背後(うしろ)によろめいた。

 斑井市長は穏やかに、
 「私が放免すると言いました。」
 蛇兵太「仰せでは有りますが、放免する事は出来ません。」
 斑井市長「イヤ私は騒ぎの所を通り合わせ、実地の有様を良く見ました。少しも此の女に悪い所は無い。若しも勾留するなら、雪を浴びせなどした、紳士の方を勾留すべきです。此の女を放免成さい。」

 憎しと思う市長の口から、此の公明な言葉の出るのを聞き、華子は呆気に取られた。
 蛇兵太「でも此の女は、其の上に市長閣下をも侮辱しました。今と為っては、何うしても放免は出来ません。」
 斑井「イヤ市長を侮辱した件は、貴方に関係無い事です。私一身の事柄ですから。」

 蛇兵太「イヤ市長を侮辱すると言う事は、治安の妨害です。貴方一身の事では無く、法律上の事件です。」
 市長「私は市長の職を以て言います。此の女を放免なさい。」
 蛇兵太「私は巡査部長の職を以て言います。放免は出来ません。」

 斑井「貴方は服従すれば好いのです。」
 蛇兵太「私は職務に服従するのです。職務上、此の女を六ケ月の禁錮に処せねば成りません。」
 意外に激しい争いである。何う決着する事かと怪しまれた。市長は厳かである。

 「六ケ月は扨(さ)て置き、一日でも拘禁は出来ません。」
 蛇兵太「でも現に此の女がーーーー私の職権として。」
 斑井「貴方は中央警察の職務、此の事件は地方警察の領分です。職権を言えば、私が、此の市長が、扱います。」

 蛇兵太「イイエ、市長」
 斑井「イイエ部長」
 蛇兵太「それでも市長」
 争って、果てしが無い。斑井市長は日頃の温厚に引き換えて、太喝一声、

 「お黙り成され。」
 蛇兵太「と仰(おっしゃ)っても」
 斑井「此の部屋からお退(の)きなさい。」
 何うして此の人がこの様にも厳重な語を、発する事が出来ただろう。蛇兵太は威光に打たれ、首を垂れて退いた。けれど彼の胸中は不平満々である。

 華子は、市長の一語一語に、総て意外な思いを為し、何うなる事かと、唯身を震わせて聞いて居たが、漸(ようや)くに、市長を恨んだ自分の身の過ちを悟り、この様な親切な人は、又と無い様に思い始めた。

 それなのに、たった今、自分が此の人に、無情の侮辱を加えた事を思うと、消え入り度(た)い程で有るが、それを咎めない市長の徳は、世に類(たぐ)いも無いほどに、高く感ぜられる。何してこの様な人を、見損なって居たのだろうと、次第に後悔の念のみ深く成った。

 やがて市長はその傍に来て、
 「オオ華子さんとやら、貴方が工場に居た事も、工場を出た事も、少しも私は知らなかった。何でその時、直ぐに私へ訴えてくれません。」
 市長の言葉は、自分と同等人に対する様に丁寧である。昔ダインの高僧彌里耳(ミリエル)僧正が、罪深き戎瓦戎(ジャンバルジャン)と言う者を、諭した様子でさえも、之ほどでは無かった。

 華子は一言の返事も出ない。
 市長「ナニ、過ぎ去った事は仕方が無いとして、もう何も心配には及びません。貴方の借金は総て私が払い、そうして娘小雪とやらも、引き取って、貴女へ渡して上げましょう。貴女は此の土地に住むなり、巴里に住むなり、自分の好きな所で暮らすが宜しい。

 但しもう、今までの様に、賤しく身を持ってはいけません。神の目にも清い様に、人にも敬われる様に、行いを改めなければ――――アア可哀想な身の上だ。」
と真に涙の出る様な声で、諭し終わって嘆息した。

 華子に取っては、全く身に耐えられないほどの親切である。借金を返してくれ、娘小雪をも迎えてくれ、その上に、清く身を持つことの出来る様にしてくれるとは、唯勿体ない思いがして、自分の今までの汚らわしさと、今救われる有難さが、骨身に応(こた)える。彼女は咽(むせ)び泣く声の中から、
 「オオ、オオ」
と叫んだまま、斑井市長の足許に気絶して倒れた。



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