巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou35

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

  三十五   傍聴席 三

 馬十郎は馬十郎だ。戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)では無い。けれど裁判の力と言う者は、豪(えら)い者だ。戎瓦戎で無い者を戎瓦戎にしてしまおうとして居るのだ。検事が呼び出したいと言った四人の証人は、即ち馬十郎を戎瓦戎にしてしまう道具の様な者だ。
 判事長は同意したらしい。
 「しかし念の為に申しますが、証人四人のうち巡査部長蛇兵太は、先刻証言を済ませて後、公用が有るからと言って、届け出の上で既に退廷しました。今は残る三人しか呼び出す事が出来ません。」
 検察官は立って、

 「では三人を呼び出して戴きましょう。ですが私しは、ここに陪審員諸君の記憶を新にする為、先刻蛇兵太の陳述した証言を繰り返します、彼は明白に言いました。『此の馬十郎と自称する被告は、馬十郎と言う名では無く、ツーロンの獄で五、六回も脱走を企てた、刑期十九年の囚人戎瓦戎です。出獄の後に直ちに追剥と為ったのみならず、ダインの高僧の家へも忍び入った疑いが有ります。私しは、此の被告に於いて、その戎瓦戎の顔を明らかに認めます。』と。
 サア蛇兵太は此の通り申したのです。此の証言が残って居る以上は、再び彼を呼び出さずとも遺憾は無いと存じます。」

 証人の一人がこう言ったなら、今しも被告自身の言立てた事は、何だか嘘の様にも思われる。そうすれば、成るほど此の被告が、仮忘(とぼ)けた様な事を言うのは、図々しいのかも知れない。他に言い抜けの道が無い為、あの様な事を言うのかも知れないと。早や聞く人一般の心に疑いの曇りが湧いた。何でも人と言う者は、新たに聞く方の言葉を余計に信じるのだ。

 之に引き続き、三人の中の一人である、武ラバットと言う者が呼び入れられた。是には馬十郎が留置かれた未決監の押丁(あふてい)で、その昔五年間も戎瓦戎と同じ牢に居たと言うのだ。判事長は之に向かい、
 「証人武ラバットよ、汝は曾て破廉恥の罪を犯した為、今は法廷に於いて正式に宣誓する資格が無い。けれど天はまだ、憐れむべき汝の心中に、良心を残して有るだろう。汝はその良心に誓い、誠実に自分の信ずる所を申し立てよ。汝は此の被告を何者と認めるのか。」

 厳かな言葉である。之に応じて証言する人の言葉に、勿論偽りの有る筈は無い。武ラバットは、恭(うやうや)しくして、
 「ハイ私は宣誓する資格の無いのを、深く恥ぢ且悲しみます。けれど良心に誓って、決して偽りは認めません。誰よりも先に此の被告を戎瓦戎だと見破ったのは私です。彼はツーロンの獄に居た頃より余ほど年を取って居ます、且は心も耄(ぼ)けて居る様ですけれど、戎瓦戎自身に相違無いのです。彼は獄に居る時から、陰気な欝(ふさ)ぎ込んだ気質で有りました。」

 宣誓が出来ないだけに、却ってその言葉が宣誓をした証人の言葉よりも人を感ぜしめた。愈々被告は戎瓦戎に相違無い様に見えて来た。次に呼び入れられたのは今もツーロンの獄に居る終身囚だ。特に此の事件の為に呼び出されたのだ。名を仙ニルドーと言うのだ。彼も同じ様に良心に誓った上で、被告馬十郎の顔をば、親しげに眺め、

 「私とは五年の間、同じ鎖に繋がれて居た戎瓦戎です。切るに切られぬ間柄で有りましたもの。何で忘れますものか。」
と言い、更に被告に向かって、
 「オイ兄弟、もう一度帰って来ねえ。今度はお前も何うせ終身だろうから、久し振りで、同じ鎖を引っ張り合って稼ぐのも乙だぜ。」
と言足した。被告馬十郎は唯呆れた様子で、
 「驚いた」
と呟いた。

 最後には、之もツーロンに居て。今は或田舎で牧場の番人を勤めて居る古シエベルと言う男だ。同じ様に誓いはせられて、同じように被告の顔を見、戎瓦戎です。戎瓦戎です。背の力の恐ろしい強い奴ですよ。」
と証言した。被告は、又も呆れた様に、
 「驚いたなア」
と独語した。

 武ラバット、仙ニルドー、古シエベル、此の三人の証言が揃って、その上に是等の囚人又は前科者とは違い、巡査部長と言う厳めしい官名の有る蛇兵太の言葉さへ一致して居る。傍聴席には、三人の証言が終わる度に、呟き声が波の様に伝わった。是は最早被告の弁解の道が絶えたと思って人々が細語(ささや)き合う声なんだ。全く被告は弁解の道が絶えた。是だけの言葉が揃って、何で一人で言い抜けられる者か。何れほど巧妙な弁解法を用いたとしても、もう無益である。

 判事長は被告に向かった。
 「その方は三証人の申し立てを何と聞いた。之に対して陳弁の辞が有るか。」
 被告は相変わらず呆れた様子で、
 「私は申します。ハイ、唯驚きました。」
 憐れや彼の言葉は是だけである。驚いた丈の一事で、何で三証人の言葉が揉み消せよう。

 傍聴席には再び細語(ささや)きの波が起こり、今度は陪審員の席にまで伝わった。陪審員が既に心を動かした上は、もう馬十郎の運は尽きたのだ。決したのだ。彼は戎瓦戎として、終身の刑に処せられたのだ。誠の戎瓦戎は何うしたのだろう。声も無く形も見えない。此の席には居ないのか、憐れむべき此の老人(としより)を身代わりに立て、逃げ去ろうとして自分の安全を喜んで居るのだろうか。此の馬十郎が戎瓦戎として刑に服する以上は、彼誠の戎瓦戎は、もう何所までも無難である。判事は徐(おもむろ)に憲兵に向かい、

 「場中を静かにおさせ成さい。是にて本官は本件の概要を総括します。」
と言った。サア愈々(いよいよ)公判が終わるのだ。馬十郎の最後が来たのだ。此の時である。此の危急な一髪の際である。殆ど天から降る声の様に、何処からとも無く凄まじい声が満場に響いた。何者、何事、何の所、満場は唯驚いた。

 声は確かに判事の背後に在る特別席から発したのだ。
 「証人の武ラパットよ、仙ニルドーよ、古シエベルよ、此の所を見よ。此の顔を見よ。」
 裂帛(れっぱく)の叫び声とは此の悲壮な声を言うのだろう。裁判官も検察官も、陪審員も、弁護士も電気の掛かった様に奮い立って、声の来る元を見た。此はどうしたことだ、その所にはモントリウルの市長斑井父老が、冬枯れた寒山のように厳然と立って叫んで居るのだ。




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