巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou38

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   三十八   市長の就縛(じゅばく)一

 戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は裁判所を出て何所へ行ったのだろう。夜の一時に此の地を立つ郵便馬車へ、乗り合いの一席を買い切って置いたのだから、無論その夜の中に自分の市へ帰ったのだ。
 既にして夜は明けた。ここは華子の臥(ふ)して居る病院の一室(ひとま)である。華子は昨日斑井市長が、小雪を引き取りに行って呉れたのだと思い詰めて以来、病気の苦しさをも忘れた様に静かになった。

 或時は夢現の様に子守歌を歌い、或時は正体も無く眠りなどし、医者の気遣ったほどの事も無く一夜を過ごした。但し、目の醒めて居る間は勿論、眠って居る中と雖(いえ)ども、絶え間無く咳が出た。余り末期の遠く無いことを、此の咳が知らせて居るのでは無かろうか。

 看護婦長を勤めて居る親切なる老婦人は、華子の目の醒め次第に飲ますべき薬の用意に、次の間で瓶を拭いなどして居たが、自分の後ろに人の来た様に感じたから、首を上げて振り向いて見ると、青い顔して斑井市長が立って居る。

 「オオ市長様、」
と言い掛け、又忽(たちま)ち驚いて
「貴方は先(ま)ア何う成されました。お頭(つもり)の毛が白く成って居ます。」
 市長は此の言葉が心に入らない様子である。老婦人は傍らの抽斗(ひきだし)から、医師が診断に用いる小さい鏡を出し、
 「之でご覧なさいまし。」
と云い、頭の有様を写して見せた。

 市長は唯、
 「成るほど」
と云って、異様に笑んだのみだ。まだ心に入らない様な様子である。そうしてやがて問うた。
 「華子は何うしました。」
 老婦人は直ぐに昨日よりの事を話し、
 「子を思う親の愛ほど力の強い者は有りませんよ。貴方が小雪とやらを連れて来て呉れる事のみ思って、ズッと静かに成って居ます。」

 市長「私を逢わせて下さい。」
 老婦人「貴方はその娘を連れてお帰りに成りましたか。」
 市長「私を華子にお逢わせ下さい。」
 元気の無い声だけれど、妙に固い所がある。老婦人は小雪を連れて来たのでは無い事を察した。
 「可哀想に、華子は小雪を連れて行って見せなければ、直ぐにもーーー何うなるか分かりません。それに先刻から眠って居る様子ですから、目の醒めるまでお待ち成さっては如何です。」

 市長「待って居る時が有りません。」
と言って、早や入口の戸に手を掛けた。
 市長はもう自分の背後(うしろ)に、事に由ると捕吏(とりて)が迫って居る事を知って居る。この様な際にも、まだ華子を見廻るとは、何と言う優しい心だろう。併し老婦人はそうまで見抜く筈が無い。唯公務の為に、時間が無いのだろうと思いつつ、

 「華子に逢って、小雪の事を何と仰(おっしゃ)ります。直ぐに華子は問いますが。」
 成るほど何と答えれば好いだろう。之には如何したら好いか、少し思い悩んだけれど、
 「サア何とか。その時に返事が出るでしょう。」
と言ったまま中に入った。市長が病人の事に付いて、この老婦人の言葉を押し切ったのは、此の時が初めてである。

 中に入って見ると、果たして華子は眠って居る。市長は抜き足で枕辺に寄ったが、虫の様な細い寝息にも、一種の聞くに忍びない苦しい響きの有るのは、肺と言う此の病気の特徴である。如何にも、もう末期の遠く無いことが分かって居る。市長の眼には、見る中に露が光った。そうして深い嘆息(ためいき)の声も口に洩れた。

 アア何と言う気の毒な寝顔だろう。健康(すこやか)でさえ有れば、未だ花の盛りとも言える美の絶頂を過ぎもしない年頃なのに、頭の毛は短く、歯は抜けて、頬の肉は抉(けず)り取った様に落ち、唇にも色が無い。全く社会の意地悪と言う事が、はっきりと刻み附けられて居るのだ。

 強いて昔の面影を求めれば、眠った目を保護する様に蔽(おお)って居る、長い緑の睫毛(まつげ)のみである。此の睫毛の底に、清い泉の様に安んじている眼には、何れほどの悲しみが籠っているか、何れほどの愛を湛(たた)えて居るか知る人も無い。今は怪しみ問う人さえも無い。

 唯だその深い愛、深い恨み、深い悲しみを汲み取るのは、此の斑井市長一人では無いだろうか。華子の千載の知己が若し有るならば、唯だ此の市長では無いだろうか。

 恍(うっとり)として市長は、哀れな此の顔に見入った。市長の心は今、華子の心の中に住んで居るだらうか。将(は)たまた自分の心の中に住んで居るのだろうか。自分も無い、華子も無い。唯だ一種何とも言えない悲愴の靄が、両人の間を閉じ込めて、暗くてはっきりしないばかりだ。人間の意気は単にこの様な際に相合し相通ずるのだ。

 気の所為(せい)か知ら無いけれど、華子の顔には次第に安心の光が現れ、紅の色さえ幾分か復した様にも思われる。若し此のままで永眠したなら、その身に取って此の上も無い安楽な往生では無いだろうか。恩人の手から可愛い娘を渡された夢のままで、天国に入る事が出来はしないだろうか。

 けれど華子は目を醒ました。目を醒まして市長の顔を見た。嬉しそうに且安心した様である。そうしてその唇から出た最初の言葉は、
 「オヤ小雪は」
と非常に軽く問うのであった。無論恩人が連れて来て呉れて居る事と、堅く信じて毛ほども疑う念が無いのだ。





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