巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou43

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2017.5.13


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十三  むかし話

 ここで一回の昔話をして置かなければならない。時は千八百十五年六月の十八日、歴史を読む人は知って居るだろう。此の日は千古の怪傑拿翁(ナポレオン)が最後の大敗北を遂げた水嘍(ワーテルロー)の激戦の日である。本篇の最初に記した戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)の初めての出獄よりも、更に三月ほど前である。

 戦争の終わった水嘍(ワーテルロー)の野に、早や日は暮れて、夏の夜の月が屍(しかばね)の山、血の池を照らして居る。昼間打連(うちしき)った銃砲の煙が、まだ消えもやらず、幾里四方を立ち籠めている中に、所々英独聯合軍の戌兵(じゅへい)《守備兵》の焚く篝火(かがりび)も見え、或所には未だ燃えて居る家なども有る。真に物凄い光景とは是である。昔の人は古戦場をば、人間凄涼(せいりょう)《心や情景が物淋しい》の極みとは言っているが、古戦場よりも、死骸の未だ片付かない、新戦場の方が何れほど無残に見えるか分からない。

 此の無残な光景の中をば、人目を忍び忍んで、這って歩いて居る人が有るとは、又不思議では無いか。
 彼は何をして居るのか、此所の死骸、彼処(かしこ)の死骸をと検め、時々は番兵や憲兵の通る足音に耳を澄まして、或いは自分の身を横たえ、死骸の真似をして足音の通り過ぎるのを待ち、或いは匍匐(よつんばい)になって、行く手を透かして見るなど、其れは其れは用心が綿密である。

 果たして何の為だろう。若(も)し敵情を探る為ならば、余程豪胆な軍事探偵である。若し又其の他の指命の為ならば、天晴の勇士と言わなければならない。所がそうでは無い。その様な褒めるべく感ずるべきでは無い。彼は泥坊だ。死骸の身に着いて居る金品を盗むのだ。或る国には火事場泥棒と言う、ずるい商売も有る相だが、其の又上を越す戦場泥坊とは、何と驚いた職業では無いか。

 何の様な人間のする事か。どのみち兵士の古手か何かで有ろうが、その顔を見て遣(や)り度い。
 彼は今しも俯伏(うつぷ)して、とある死骸の指から金の指輪を抜き取って、あらかじめ用意して居る、脇下の袋の中に納めた。そうして匍匐(よつんばい)のままで、行く手を眺め、一歩前に出ようとすると、背後から着物の端を捕らえて引く者が有る様に感じた。流石の戦場泥坊も、之にはゾッとした。けれど直ぐに気を鎮(しず)め、静かに背後を振り返り見ると、今しも指輪を抜き取ったその手が、自分の裳(すそ)の方に纏(まつ)わって居る。
 
 彼は呟いた。
 「何だ憲兵かと思って肝を冷やしたら幽霊だ。幽霊に捕らえられるのは、先ず気易い。」
 此の様な際にも、此の様な図々しい言葉を吐くとは、成程、此の気で無ければ、此の商売は出来ない筈だ。彼は振り払って去ろうとしたが、思い直した様に、

 「待てよ。金の指輪を嵌めて居るからは、士官以上だぞ。まだ稼ぎが有るかも知れない。」
と呟き、更に振り返って、其の死骸を、他の死骸の下から引き出した。勿論血だらけの顔だから、月の光にも、良くは分からないが、肩に金の綬(ふさ)の掛かって居る所は確かに佐官だ。彼は其の胸を探って、金時計を探り当てた。喜んで之れを自分の袋へ転居させた。次には死骸の衣嚢(かくし)《ポッケット》を探った。ここには、軽く無い財布が有った。之をも同じく転居させ、
 「アア思ったより裕福だったぞ。」
と言い、再び這って去ろうとすると、死骸の口に声が有った。

 「有難う。」
と謝する言葉が明らかに聞き取られた。
アア此の人は未だ死に切っては居ないのだ。自分の金時計を盗まれるのを、半死半生の中を介抱を受けるのだと思い、謝する言葉を吐いて居る。泥坊は返事も出なかったが、士官は更に虫の息で、

 「軍は何方(どっち)が勝ちました。」
 泥坊「英国方が勝ちました。」
 士官「エエ、残念」
と言ったが、併し目は開かない。全くそれ丈の気力も無いのだ。そうして更に、
 「オオ私の胸に金時計が有ります。衣嚢(かくし)の中に財布が有ります。それを貴方に上げますから、何うぞ取り出して下さい。」

 真逆(まさか)に、
 「もう戴きました。」
とは答えない。唯だ従順に
 「ハイ」
と答え、言葉のままに胸と衣嚢(かくし)の中とを探り、
 「もう有りませんよ。」
 士官「では盗まれたのだ。私を蘇生(いきかえ)らせて呉れたお礼に、貴方へ差し上げようと思いましたのに。」

 果たして此の士官が、真に蘇生(生き返り)果(おお)せるか否かは、未だ分からない。折しも遠くの方から、番兵の近づく様な足音が聞こえたので、泥坊は立とうとした。
 士官「アア命の親、何うかお名前を聞かせて下さい。」
 泥坊は当惑げだけれど、小声で、
 「貴方と同じく仏国方です。もう番兵が来ますから、話しては居られません。先ず貴方だけは助けて上げましたから、後は御自分で逃げられる丈お逃げなさい。」

 身動きさへも出来ない者に、逃げよとは無理である。
 士官「貴方の階級は」
 泥坊「軍曹です。」
 士官「お名前は」
 泥坊「手鳴田と申します。」

 アア是れが手鳴田軍曹か。後に華子の娘小雪を預った、軍曹旅館の主人手鳴田が即ち此の戦場泥坊である。唯此の一事で、彼が何の様な人間かと言う事は分かって居る。
 士官「有難い。手鳴田軍曹、此のお名はもう忘れません。私の名も云って置きましょう。少佐本田圓(まるし)と言うのです。」

 手鳴田軍曹「ここで若し見付かれば、私は敵の手で射殺されますから。是れで御免を蒙ります。」
と言い、獲物に膨れた袋を腋(わき)に挟み、何所(いずこ)とも無く逃げてしまった。




次(四十四)へ

a:40 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花