巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   四十六  老囚人の最後

 白髪頭の老囚人は、帆桁(ほげた)の上に立って四辺(あたり)を見廻し、やがて帆桁の一端まで歩んで行った。実に危うい業(技)である。観る人々には軽業の様に感ぜられた。
 吁(ああ)、彼は人を九死の中より助ける為に、自ら同じ九死の地位に陥る者では無いだろうか。助けを求めて居るその人と共々に、助けを呼ぶ事に成るのでは無いだろうか。

 この様な間にも、綱の先に垂れて居る水兵は、一刻一刻に力が尽きて行く。もう此の牢囚人が、何の様な事をしても、間に合うか合わないか分からない。けれど老囚人は、少しも躊躇しない。彼は、帆の揚げ下ろしに用いる綱を取って、帆桁の先に結び着けた。そうしてその綱の一端を下に垂らし、自分がその綱を伝って下り始めた。

 暫くの間、彼自身も空中にブラ下がる分銅の様な位置とは為った。全く一人の危険を救うが為に、同じく二人の危険を作り出した様な者だ。観る人々は或いは、
 「危ない。危ない。」
と連呼し、或いは、
 「慎重にやらなければいけないぞ。」
などと励ましも戒めもし、鳴りも止まない程の状況で有ったが、やがて全く声を鎮めた。実は余りの心配に、息さえ固くなってしまったのだ。

 老囚人は風に吹き捲(まく)られて、鞦韆(ぶらんこ)の様に空中に揺曳(ようえい)すること、数秒時で有ったが、漸くにして、不幸な水兵の握(つか)まって居る綱を捕らえる事が出来た。もう既に疲れ果てて居る水兵の胴の辺を、自分が縋(すが)って居る綱の一端を以て結び留めた。

 彼の技は神の様である。片手は自分の身を支える為に、自分の綱を握り、片手を以て他の人の胴を結ぶとは、空中に於いて殆ど出来ることでは無い。その間、観る人々は、そうでなくても、吹きしきって居る木枯らしに、自分の一息を添えるのさえ、恐れる様に、一言をも一句をも発しない。唯だ満腔(まんこう)《心いっぱい》の心配を、自分自分の眼に集めて、老囚人のする事を見詰めて居るのだ。

 是だけの深い切ない同情が、この外に有るだろうか。唯此の同情のみの為にも、天は此の老囚人をば、過ちの無い様に、守護すべき筈で有る。
 僅かに一、二分の間だけれど、観る人々はその辛い心配の胸に、一年も経った様に長く感じた。漸くにして、老囚人は確(しか)と水兵の胴を繋(つな)ぎ、最早水兵が手を放したとしても、落ちはしないのを認め、今度は二本の綱を手繰って、元の帆桁まで上り帰った。

 その身の軽さは、人間の様では無い。殆ど腕力である。少しづつ又少しづつ、静かに又静かに、重たそうにもせず、水兵を引き上げて終に自分の手に抱き取った。
 此時の、観る人々の歓びは、殆ど譬(たと)え様が無い。風の音、波の音を圧して、海陸一時に歓呼の声が聞こえた。声の過半は
 「その囚人を特赦せよ。」
とか
 「放免せよ」
とか言うので有った。真に特赦する価値が有ると言っても好い。

 帆桁の上まで上ると、もう水兵は大陸に上った様な者だ。熱心に老囚人の手を握って謝した上、自分の持ち場の場所に帰ったが、後に老囚人は独り帆桁の上を伝い、元の所へ帰ろうとした。

 彼は今までこそ、気が張り詰めて、何の危険をも感ぜずに居たけれど、救うべき人を救い終わり、もう我が務めが済んだと思うと、急に心が弛んだのか、或いは余り危険な仕事をした為、眼でも眩(くら)むことに成ったか、帆桁の上で揺ら揺らと蹌踉(よろめ)いた。

 「アア、危ない」
との声が、我知らず観て居る人の口を発し、彼自身も「苦(あっ)」と叫んだ。是れが人々の彼を見た終わりである。彼も又人々を見た終わりだろう。彼の足は踏み辷(すべ)った。彼の身は帆桁の上から、幾十尋(ひろ)(数十メートル)の海に落ちた。吁(ああ)、彼は人を助けて、自分がその身代わりに為ったのだ。人を助ける力は有っても、自分を助ける力は無かった。

 直ぐに四艘の端艀(ボート)が、彼の為に下ろされた。若し彼を助ける事が出来なければ、人に対して言い訳の無い落度だと、船長も水兵等一同も思って居る。端艀(ボート)で、逆巻く浪を冒して縦横無尽に海を探った。けれど此の辺には無数の大船が停泊して居る。彼は或いは何れかの船の底へ、巻き込まれたのかも知れない。

 遂に浮き上がって来ない。他の船舶もそうと見て、端艀(ボート)を下ろし、及ぶ限りの捜索に力を添えた。けれど無益で有る。そうして夜に入るまでも、捜索を続けたけれど、終に老囚人の死骸を、得る事が出来なかった。

 此の辺の海底は、深い海草が繁(茂)っている。海女さえも之に搦(からま)って死する事が有る。死んで死骸が上がらない事も稀では無い。多分彼老囚人は海草に搦(から)まれたのだ。天の網に罹(かか)って居る身が、更に海草の網に罹ったのだ。

 此の翌日、即ち千八百二十三年十一月十七日、此の土地の新聞に、下の記事が出た。
 「昨日オリオン号にて、人を救って、却(かえ)って自ら水死した義侠なる老囚人は、遂に死骸さえも浮かびあがらなかった。彼は当地の獄に、第九千四百三十号として服役せし者にして、名を戎瓦戎と言う云々。」

 全く彼は、読者の察しただろう通り、戎瓦戎で有った。
 この様にして、戎瓦戎は全く死人の数に入った。





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