巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

 
   五十五  客と亭主(あるじ) 二

  幾等此の老人が姿を窶(やつ)した金満家にもせよ、千五百円(現在の約千九百万円)の呼び声には、驚くだらうと手鳴田は期して居た。所が驚く気振りも無く、声に応じて千五百円差し出したので、却(かえ)って手鳴田の方が驚いた。彼は唯だ、命令の様な老人の言葉に応じ、
 「ハイ、小雪を呼びます。呼びます。」
と答えるのみである。

 この様な間、小雪は何をして居るだろう。
 小雪は毎(いつ)もの様に今朝早く起きた。起きてすぐに、昨夜脱ぎ揃えて置いた靴の中を覗いて見た。驚いた事には、中には見た事も無い大きな新しい金貨光って居る。是れが二十円に通用する事とは知らず、知った所で二十円が何(どれ)程の値打ちかと言う事を知らないけれど、唯だ嬉しい。唯だ有難い。殆ど金貨の色に目が眩み、その光に心まで酔った様な様である。

 慌てて取り上げて、宛も盗んだ品物をでも隠すかの様に、衣嚢(かくし)に納めた。吁(ああ)此の金貨、何所から来たのだろう。小雪はまさかお化けの仕業とは思わない。昨夜人形を買って呉れた親切な老人の恩に違い無いと、小さい心に承知した。

 人の親切が何の様な者かと言う事は、小雪は知らない。他人の親切は扨(さ)て置いて、母の慈愛と言う事さえ知らないのだ。此の家へ預けられたのが五年前で、その身の三歳の時で有った。母の顔が何の様で有ったやら、少しも覚えて居ない。考えても思い出さない。唯だ思い出すのは、自分の身が、覚えて此の方、常に凍えて飢えて叱られて泣いてばかり居た事である。

 今と言う今に至って、初めて何うやら親切と言う事が分かった。良くは分からないけれど、嬉しいと言う心持ちの味も分かった、
 けれど喜んでなどは居られない。直ぐに身を引緊(し)めて、例(いつも)の通り拭掃除に取り掛かった。取り掛からなければ、何の様に叱られるかも知れないのだ。

 が併し衣嚢(かくし)の中に在る金貨が気になり、長く仕事して居る事は出来ない。時々に手を休めて衣嚢を開き、俯向いて金貨の光を覗き込む様に見る。

 三十分と経たないうちに、何度金貨と話したかも知れない。凡そ六、七回目の時であろう。話して居る所を、手鳴田の内儀に見付けられた。無論怒鳴り附けられる様に叱られることと思い、アタフタと箒を取り直したが、意外にも内儀は叱らない。

 「店に用事が有るのだから直ぐに出てお出で。」
と言い渡された。不思議な事も有る者だ。内儀が怒鳴らずに用事だけ言い付けるとは、却って薄気味の悪いほどだ。
 勿論内儀は夫の命令で、小雪を呼びに来たのだ。小雪が店へ行った時は、もう老人と主人の間に話の出来た時であった。

 老人は小雪の顔を見るよりも早く、昨夜から自分の持って居た風呂敷包みを開いた。中から出たのは丁度七、八歳の小娘が着る様な着物である。帯から靴までも揃って居る。是れを見れば、此の老人が、故々(わざわざ)小雪を引き取る為に、用意をして出かけて来た事は確(たし)かだけれど、主人手鳴田は、宛も小雪が二十円の金貨に酔ったた様に、千五百円の金に酔って居る際だから、金と話しをするのが忙しくて、此の事には良くは気が附かないのだ。

 老人は自分の娘か孫にでも言う様な口調で、小雪に向かい、
 「サア、此の着物をやるから、直ぐに着替えてお出で。」
 小雪は夢の心地で奥に行き、着物を着替えて又出て来た。

 是れより二十分と経たないうちに、モントフアメールの町を、羊羹色《色あせて見すぼらしい》の服を着け、太い杖を持った老人が、新しい着物を着た痩せ凋(しな)びた小娘の手を引き、小娘は自分の体ほどもある立派な人形を抱いて、双方ともに嬉し相な顔で、巴里の方へ行く姿を見受けた人が幾人か有った。

 此の二人が町を放れた頃に及び、軍曹旅館では主人手鳴田が、その妻を呼び、誇り顔に五百円の紙幣三枚を取り出して、指示(さしし)めした。妻は驚くかと思いの外、嘲(あざけ)る様な顔色で、
 「オヤ只(た)った是れっぽち」
と問うた。主人の顔は異様に曇った。
 「是っぽち、先ア良く見ろ三枚とも五百円札だぜ。」

 妻は又笑った。
 「五百円札は知って居るよ。あの老人が小雪に着せる着物まで持って来た事を、お前は何とお見なさった。」
 手鳴田は初めて合点の行った様に飛び立って、
 「オオそうだった。もっと取れる。もっと取れる。此のまま逃がして成る者か。サア、早く己の帽子を取って呉れ。」
と言い、妻の差し出す帽子を取って頭に置くや否や、一散に駆け出して、老人と小雪との後を追った。



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