巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   六十五  何者の屋敷 二

  驚いたのみで無い。戎瓦戎(ぢゃんばるぢゃん)は戦慄した。殆ど恐ろしさに身を支える事が出来ない程となった。
  彼が見た床の上の姿は何の姿だろう。確かに死骸である。灯光(ともしび)の暗いのと窓の硝子の曇って居る為、良くは見えないけれど、女の死骸で、床の上に俯伏(うっぷ)している。アア此の家は何と言う合点の行かない所だろう。先には月中に天楽を聞き、ここが天国とでも言う所だろうかと迄に怪しんだが、今は目の当たりに地獄の様を見るのだ。

 常ならば戎瓦戎もこうまでは驚かなかったかも知れない。けれど今は心が紊(みだ)れて居る。少しも落ち着いて考える余裕が無い。彼は見る中に恐ろしさに耐えられなくなり、窓を離れて逃げ出した。けれど彼の怪しさに我慢がならない事柄は、まだ是だけには止まらなかった。

 逃げ走って彼は元の小屋に帰った。ここには未だ、小雪が冷たい石の床に頭を着けて眠ったままである。
 何と言う寒い淋しい屋敷だろう。誰も住んで居ないのだろうか。住んで居るのは、今見た死骸のみかも知れない。せめて人の居る気配でも有れば好いのにと、心の中に愚痴を言いつつ考えて居ると、又一つの不思議が現れた。

 是も何所からか知らないけれど、微かに鈴が鳴る様な音が聞こえた。
 聞こえては止み、止んでは又聞こえる様子が、初めには虫の泣く声かとも怪しまれたが、そうでは無い。確かに鈴だ。戎は首を挙げてその音の来る方を見ると、荒れ地の一方に、誰やら月の光に照らされて立って居る。イヤ立って居るのでは無い。立ったり俯向(うつむ)いたりしているので、その人の動く度に鈴が鳴る。多分はその人が身に着けて居るので有ろう。

 何をして居るのか更に分からない。けれど此の上も無く不安に感じた。
 たった今、せめて人の気配でも有れば好いと思った身が、人を見れば又その人が恐ろしい。併し恐ろしいのは道理である。未だ此の屋敷の外には、蛇兵太の一隊が居るに違い無い。たとえ立ち去ったとした所で、幾人か見張り番を残して有るのは必定だから、若し此の人が戎の姿を見、驚いて声でも立てれば、直ぐに捕らわれる事とも成るのだ。

 こう思うと、此のまま居るのが危うくて我慢が成らないから、戎はソッと小雪を抱き上げた。抱き上げても目を覚まさない。そうして成る丈目に触れない陰の方へ身を移したが、鈴は相変わらず鳴って居る。人は相変わらず立ったり俯向いたりして居る。何の為か、更に合点が行かないから、もっと良く見ると、その人の居る所は、野菜などを作った畑の様だ。

 多分その人は苗が霜に傷められるられるのを予防する為に、畑の畦(うね)へ土でも掛けているのだろうと、是までは想像が届いたけれど、鈴の音が分からない。何故に腰に鈴を下げて居るのだろう。
 併し、兎も角も畑男の類とすれば、そう恐れるには及ばないと少し心を安くしたが、心配の弛むと共に忽ち気が附いたのは、今まで握って居た小雪の手の冷たさである。殆ど氷に触(さわ)る様な想いがするので、

 「小雪、小雪」
と低い声で呼んだ。けれど返事が無い。更にその肩に手を当て揺り動かした。けれど目を覚まし相にも見えない。
 「オヤ、死んだのでは無かろうか。」
との痛い痛い疑いが針の様に戎の心を刺した。

 戎は驚いて立ち上がった。頭から足の先まで震えが止まらない。そうだ。前から聞いて居る。余りの寒さの強い所で、風に吹かれて眠る時は、眠ったままで死んでしまう事が度々あると。確かに小雪がそれである。凍えて息を引き取ろうとして居るのだ。戎は又俯向いて小雪の手を握った。その脈が殆ど絶え掛けて居る。何が何でも此のままには置かれない。目を覚まさせなければ成らない。温めてやらなければ成らない。風の吹かない所へ連れて行き、寝床の中へ寝かさなければ成らない。とは言え何してその様な事が出来るだろう。

 戎は只だ当惑の余りに、何も彼も打ち忘れ、一散に鈴の鳴る方へ馳せ付けた。
 馳せ付けて、それが為に捕らわれる事に成れば何とする。彼はその様な事を顧みる暇が無い。直ぐに畑男の前に立って、その打ち驚く様子を目にも留めず、
 「サア百円、百円」
と叫んだ。

 男は何事かと顔を上げて戎の顔を見た。
  戎「サア百円遣(や)る。今夜唯った一夜だけ寝床を世話して呉れれば。」
 此の様な事を言われても合点の行く筈が無い。男は又倩々(つくづく)と戎の顔を見た。戎の顔には、月の光が殆ど満面に落ちて、その慌てた心配気な色を照らして居る。男は暫(しば)し見詰めて忽(たちま)ち打ち驚いた。

 「ヤ、ヤ、貴方、貴方、市長さん、斑井(まだらい)市長さん。」
 戎は一足退いた。此の異様な所で、此の異様な人に、斑井市長さんと呼ばれるほど意外な事が又と有ろうか。幾等不思議な事ばかり打ち続く屋敷でも、是ればかりは余(あんま)りである。腰に鈴が下がって居るけれど、見覚えの有る人では無い。

 「お前は何者。ここは誰の屋敷だ。」
と戎は問うた。



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