巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou87

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

since 2017.6.26


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   八十七 四国兼帯の人 四

 勿論暖炉(ストーブ)にも「贅沢」と言う程の火は燃えて居ない。けれど彼は鍋の湯を浴びせて之を消した。そうして更に忙しそうに室内を見廻した。
 娘は言った。
 「阿父(おとっ)さん、そう慌てるには及びません。直ぐに来るのでは無いのだから。」
 父は目を剥きだした。

  「何だと、直ぐには来ない。では逃げられたのでは無いか。」
 自分が日頃、逃げる様な事ばかり考えて居るから、人を疑うのも深い。
 娘「ナニね、私に番地を聞いたから詳しく答えますと、何だか此の家を知って居るのか、オヤあの家と呟きましたが、直ぐに考え直した風で、

  「ナニ構わない。」
と言い、それから外へ出て馬車に乗り、私に向かって、
 「買い物をして行くから先へ帰って居ろ。」
と言いました。今頃は買い物をして居るのですよ。茲へ持って来て呉れる為に。」

 父は少し不機嫌だ。
 「何、買い物だと。金持ちと言う者はそれだから困る。此方(こっち)が空腹だと言えば食い物を呉れる。寒いと言えば着物を呉れる。それでは全(まる)で人を乞食扱いにすると言う者だ。俺などは乞食では無い。着物や食い物は人から貰わない。金が欲しい。金が欲しい。買い物などせずに代価で呉れれば好いぢゃ無いか。」

 妙な見識も有った者だ。妻は嘲(あざ)笑った。
 「食べ物とお金と両方を呉れ無いとは限らないのに。」
 食べ物と言う一語が、妹娘の胃の腑へ聞こえた。蹲(しゃが)んで居た寝台の陰から立ち上がって、
 『お腹』は私が一番空いて居るのだよ。今食べるのが一昨日の朝飯だもの。」
 姉も負けては居ない。
 「ナニ私は一昨々日(さきおととい)の夕飯だよ。若し食物が来たら、私が先ず先一昨日の夕飯を済ませて、その後でお前と一緒に、一昨日の朝飯を食べるのが順です。」

 空腹が様々の理屈を作り出すのだ。父は今立ち上がった妹娘に向かい、
 「その様な事を言わずに、ソレ其所の窓の硝子を叩き砕け。窓が破れて居ないのは贅沢過ぎる。」
 妹娘は一昨日の朝飯に有り付く見込みが出来たので勇気が出た。飛び上がって拳(こぶし)で以て硝子一枚を叩き割った。何と言う躾(しつ)けだろう。尤も拳より外に、窓を割る贅沢な機械が無いのだから仕方が無い。その代わり拳は傷を受けて血が流れた。流石に母親は、

 「可哀想に、怪我したでは有りませんか。」
 父は機嫌が直り、
 「上等だ、上等だ。此の怪我で益々憐れっぽく見えて来る。」
と言いつつ自分の着物を裂いて、非常に仰山に包帯を施して遣った。
 此の様を此方から覗いて居る守安は、是れが人間の生きながらの地獄の景色だろうと思った。空腹の為には子の怪我をまで喜ばねば成らない。人間がここに至っては、もう何の様な事でもする。人の肉をでも食い兼ねない。実に常識で想像も出来ない様な恐ろしい犯罪が、世に絶えないのも之が為だ。此の親子が犯罪をしないのが不思議である。イヤ今まで何の様な罪を犯して来て居るかは、分かったものではない。

 やがて、今破った窓の穴から、外の霧が流れ入り、風も吹き込んだ。妹娘は恨めしそうに、
 「阿父さん、寒いよ、寒いよ。」
 父「お前より俺の方がもっと寒い。」
 寒さを比べて見る訳には行かないのに、もっと寒いと何うして分かるのだろう。妻は又も嘲笑った。
 「阿父さんは何をしても、人には負けない大層な活智(いくじ)の有る方だからねえ。貧乏比べをしたとしても、世界中の人に勝って居るのでは無いか。」

 何と言う皮肉だろう。こう成っては、夫婦の間に、愛などと言う者が有ろう筈は無い。有るのは唯恨みばかりだ。
 併し父は頓着(とんぢゃく)《気にする》せず、先ず慈善紳士を迎える用意に、手落ちは無いか否やと又部屋中を見廻した。もう此の上に貧乏らしく見せる事は絶対的に不可能である。宛(あたか)も戦争に着手する前に、陣立てを検閲する老将軍の様が有る。

 彼は先に消した暖炉(ストーブ)の所へ行き、濡れて居る炭を灰の底に隠した。誠に注意周蜜である。そうしてその傍に在る大きな鉄の火箸を取って、
 「此の火箸が大きすぎる。併し人の家の塀に有る鉄の棒を、抜いて来たのだから仕方が無い。」
 まさか火箸一本が、慈善家を追い逃がしもしないだろう。

 彼は言い終わって、窓の穴を見て身震いした。
 「えらく寒い、もう慈善紳士が来そうな者だ。」
 妻は例の調子で、
 「窓などを破らせて、若し来なかったら何うする積りだろう。」
 此の一語には夫も愕然と驚いた。若し来なかったなら、本当に何うすれば善いだろう。彼は姉娘に向かい、

 「絵穂子(イポニーヌ)、絵穂子、まさか嘘は言はないだろうな。若し来なかったら承知しないぞ。」
 来ないとしても娘の罪では有るまいに、随分無理な言い分だ。
 娘「来ますよ。嘘を吐く紳士とは顔付きが違いますもの。きっと来ますよ。」
 父「来るなら早く来るが好い。だから金持ちは嫌だと言うのだ。人が飢え凍えて此の通り震えて居るのに、悠々と買い物を仕て居るなどとは。若し俺が風でも引けば何うするのだ。少しばかりの金を貰ったとしても引き合う者か。」

 八つ当たりとは是である。
 言葉が終わらないうちに廊下の方で足音がした。
 「ソレ来た」
と言って直ぐに妻を寝台に上らせ、病人の様に臥せさせて、自分は机の前に座した。此の時、部屋の入口の戸が開いて、一人の老紳士が娘と共に歩み入った。

 吁(ああ)夢では無いだろうかと、覗いて居る守安は目を擦(こす)った。彼が椅子から転げ落ちなかったのは唯不思議と言う外は無い。歩み入った紳士は白翁、連れられた娘は黒姫である。


次(八十八)へ

a:28 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花