巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou92

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十二 四国兼帯の人 九

 もう六時も近く成った。守安は思った。
 「任務に就く時が来た」
と、彼は直ちに立って壁に寄り、例の穴から覗いて見た。
 部屋の中は多少今朝見た時と変わって居るが、その変わり方よりも物凄く感じられるのは、世に言う殺気が満ちて居ると言うのでは無いだろうか。何所が何う物凄いと口に言う事は出来ないけれど、何と無く身の震える様な気持ちが襲って来る。全く部屋中に魔が指して居るのだ。

 テーブルの上に蝋燭が燃えて居る。けれどそれよりも明るいのは暖炉(ストーブ)である。入れた炭が今起こり盛った所で、発射する赤い光が一直線に部屋主(あるじ)とその妻との顔をを射て、殆んど鬼相を照らし出したとも言うべきだ。部屋主の眼がその燃える火へ注いで居るのは何故だろうと、特に気を注(つ)けて見ると、暖炉(ストーブ)の中に長い鉄の鑿(のみ)とも稈(こて)とも分からない様な者を差し込み、それを烈火の様に焼いてある。何の為だろう。或いは之を以て白翁を威(おど)す積りでは無いだろうか。何(なん)にしても由々しき《好ましくない》次第だ。

 更に部屋の隅に、何の道具だか古い鉄器を積んである。孰(いず)れも凶器に代用する事の出来る品らしい。その傍らには巻いた縄が有る。是は何の為だか分からない。
 部屋主は言った。
 「椅子が足りない、二個ばかり欲しいけれど、」
 妻「では私が持って来るよ。」

 何所から持って来るのだろうと怪しむ間も無く妻は立った。嗚呼守安の部屋へ取りに来るのだ。人の者を我が物の様に心得ている。若し見付けられてはと、慌てて守安は又寝台の下へ入った。
 長鳥「では蝋燭を持って行け。」
 妻「ナニ両手で一個づつ持って来るから蝋燭などは邪魔だワ」

 声と共に遣って来て、丁度自分の物置からでも出して行く様に、非常に平気で二脚の椅子を持って行った。此の様子では今まで度々此の様な事をして居たと見える。
 直ぐに守安は又任務に就いた。今の椅子の一脚を白翁に充行(あてが)う積りか、長鳥は然るべく位置を計って、テーブルの前に置き、一脚を自分の横に置いた。そうして、
 「サアもう来る時分だから、下の入口へ行ってお前は待っていろ。来たら蝋燭を持って、供をして此の二階へ送り上げ、直ぐに引き返して、先刻言った通り馬車を返すのだ。」
と妻に言えば、

 「分かって居るよ。」
と答えて妻は蝋燭を持って去った。
 もう此の広い二階に、長鳥と守安と唯二人である。先刻逢った蛇兵太とか言う警官は、何所へ来て居るのか分からない。多分は配下と共に、路地か何所かへ潜んで居るのだろうが、そうすれば真逆(まさか)に、白翁の身に大した間違いも無く済むだろう、などと無理に心配を推し鎮めるのも無理は無い。

 その中に長鳥は部屋中を見廻して、あの巻いてある縄の所へ行って、検める様に取り上げた。見ると立派な、泥坊用の縄梯子である。端には金の鈎が附いて、塀へでも窓へでも引っ掛けて垂らす様に出来て居る。彼は直ぐに之を窓の傍へ置いた。

 次に彼はテーブルの抽斗(ひきだし)を抜き、中から光る物を採り出した。之は鋭利な肉切り包丁である。守安ゾッとした。そうしてその包丁の刃を手の掌(ヒラ)で擦って見るのは、刃の附き具合を試みる者と見える。守安も我知らず衣嚢(かくし)を探り、蛇兵太から預った拳銃(ピストル)を取り出したが、生憎に物に触れて微かに音がした。長鳥は耳が早い。直ぐに顔を上げて、

 「オヤ」
と言い、
 「誰か居るのか」
と叫んだ。暫しが程彼は聞耳を立てた末、
 「何だ古い羽目板が跳ねたのだ。こんな事に肝を冷やすのは、暫く荒療治に遠のいて居る為(せい)だ。」
と嘲笑(あざわら)うのは何と言う悪人だろう。若し蛇兵太からの懇懇の誡(いまし)めが無かったなら、守安はもう此の所で合図の拳銃をを発(うっ)たかも知れない。

 愈々六時とは成った。寺の鐘が響いた。長鳥はその鐘の音の一つ一つに賛成を表す様に頷(うなず)いて数を読んだ。そうして彼の肉切り包丁をテーブルの中に納め、立って耳を澄ましつつ部屋の中を歩み始めたが、間も無く下から足音が聞こえて来た。アア来た、確かに来た。足音は近づいて、やがて外から戸が開いた。

 長鳥の妻が顔を出し、
 「此の寒いのに、お出で下されましたよ。」
と言うのは、その後に白翁が立って居るのだ。言い終わって身を引いた。長鳥は身を斜めにして、
 「サア何うかお入り下さい。」
と請じた。
 白翁は何の様な接待準備が出来て居るかを知る筈は無い。真に慈善の外は何事も知らない尊敬すべき老紳士である。静かな部屋の中に入った。罠に入る不幸な鳥が、此の様な状態では無いだろうか。



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