巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

aamujyou93

噫無情(ああむじょう)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ビクトル・ユーゴ― 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳 *

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噫無情    仏国 ユゴー先生作  日本 涙香小史 訳

   九十三 陥穽(おとしあな)一

 部屋に入って白翁は敢えて部屋中を見廻しもしない。見廻す様な疑いの心が無いのだ。直ぐに二十円の金貨四個を取り出しテーブルの上に置いた。
 「濱田さん、是は先刻の家賃です。残りは必要な事柄に使うとして、緩々(ゆるゆる)と後の事などを相談しましょうか。」

 言いつつ翁は椅子に腰を下ろした。全く後々までの相談を聞いて、身の立つ様に計らって遣る積りである。此の様な慈善家が又と有ろうか。此の所へ妻が帰って来た。妻は翁を此の部屋へ送り込み、直ぐに引き返して下へ降り、言付けられた通り馬車を帰して来たのだ。妻と共に一人胡散(うさん)《怪しい》な男が此の部屋へ紛れ込み、隅の方へ立った。

 部屋主(あるじ)長鳥、又の名濱田は、深く礼を述べ、
 「何(どう)も貴方の御親切は骨身に徹(こた)えます。」
と言い、妻に金貨を見せる様に身を引いて、
 「好いのか。」
と囁き問うた。妻も小声で
 「好いよ、馬車は帰したよ。」

 白翁は初めて胡散な男の居るのに気が附き、其の顔に目を注いだ。何者だか知らないけれど、顔一面を黒く塗り、古い職工の仕事着を被(着)て、腕は裸で胸の上に組んで居る。直ぐに長鳥は弁解する様に、
 「此れは隣の住人ですよ。偶々(たまたま)此の部屋に火が有るから暖(あた)りに来たのです。近所の黒鉛製造所へ雇われて居る者だから、顔なども炭だらけです。ナニお構いに及びません。」

 成ほど其の様な事なのか。白翁は初めて部屋中を見廻して、
 「先刻、怪我をして居られた妹娘とやらは何うしました。」
 長鳥「何うもあの傷が益々痛みまして、耐えられないと申しますから、姉娘に連れさせて唯今お医者の所へ遣りました。」
と言いつつ彼は戸口を見たが、又ドヤドヤと三人の男が入って来た。孰(いず)れも前のと同じく顔を煤色に塗って居る。

 長鳥は此れ等に向かい、
 「オオ工場から今返ったのか。何(ど)れも是も黒い顔して、サア偶々(たまた)ま火が燃えて居るから、暖れ、暖れ、貧乏人はお互いだ。」
と言った。
 此方(こちら)から此の様を見て居る守安は、思ったよりも大仕掛けの荒療治だと見て取った。勿論此の宿には自分と長鳥との外に下宿者は無い。

 今来た四人を近所の製造所へ通う職人の様に言うのは勿論偽りで、唯白翁に油断させる為である。四人とも警官蛇兵太の言った、破落戸(ごろつき)の種類に違い無い。少しも油断は出来ないと、守安は又も短銃を探って見た。
 何時でも此の短銃で、蛇兵太へ合図が出来るとは言う者の、まだ不安で仕方が無い。危急な場合が迫ったら、合図をして蛇兵が登って来るまで、翁が無事に居られるだろうか。そう思うと自分の責任が益々重い。

 又も白翁は部屋の中を見、
 「オオ病気で有った細君も直られたと見えますな。」
 確かに彼の心には、もう疑いが差して居る。とは言え、今更如何ともする事の出来よう筈は無い。四人の男は火には暖(あた)らずして、一人が戸口を守り、残る三人が三方に分かれて立った。長鳥は今の言葉に答え、

 「ハイ、家内ですか。あれは病気と言いましても、根が雄牛の様な頑丈な身体ですから。」
 如何にも雄牛の様な女だ。けれどこう言われては気持ちが好くは無い。忽(たちま)ち腹立たしい声で、
 「何うせ私は雄牛だろうよ。そう言うお前は何だろう。エ、長鳥さん」
と叫んだ。

 白翁は怪しむ様に、
 「オヤ濱田さんかと思ったら、長鳥と言う名も有るのですか。」
 長鳥「ナニ是は舞台へ出て居た頃の芸名です。本名は矢張り濱田です。」
と言い、更に其れと無く妻の機嫌を取って置かなければ成らないと思ったか、

 「ナニネ、家内も今でこそ窶(やつ)れては居ますが、私が舞台へ出て居ます頃は、あれでも名高い女でした。其れに先ア飛んだ心栄えの優しい質で、私の為と言えば、少々の病は押して色々立ち働いて呉れますのさ。」
 愈々白翁は様子を悟ったらしい。もう切り上げる時と思ったか、やがて椅子から立ち掛かった。

 慌てる様に長鳥は押し留どめ、
 「貴方に是非とも買って戴きたい品が有ります。」
 白翁「私に」
 長鳥「ハイ、実は先祖代々伝わって居る大切な絵画です。是だけは手放すまいと今まで持って居ましたけれど、背に腹は替えられませず。と言って素性の分からない人の手に渡すのも嫌ですから、何うか貴方に、ハイ是非とも貴方にと思うのです。先づ一応御覧の上で、値を付けて戴きましょう。」

 否と言っても、もう戸口には番人同様に荒くれ男が立ち塞がって居るのだから。立ち去るにも立ち去られない。
 直ぐに長鳥は、部屋の隅から古い絵布(えぬの)の様な一物を取り出した。言わば何所かの看板をでも剥がして来たと言う様に、所々が裂けて居て、其の上に何の値打ちも無い全くの看板絵だ。

 図柄は戦場の煙の中から、一人の軍曹が将官らしい負傷者を肩に掛けて這い出て来る所なんだ。絵には成って居ないと言っても好い。彼は之を白翁の前に置き、
 「何うか良く見た上で、値を付けて戴きましょう。」
と言いつつ、白翁の顔を見上げるのは、翁が此の絵を見て、何の様な顔をするのかと、唯其れを見届ける心の様だ。

 翁は絵を見たけれども何事をも顔には現わさない。唯だ、
 「此の様な絵を私しに買って呉れと言われてもーーー。」 
 長鳥は少し横着《図々しい》な口調と為り、
 「貴方は紙入れを持って来たのでしょう。銀行の手形帳を持って居ましょう。お買い為さい此の絵を、高い事は言いません。二万円です。」

 何と言う言い分だろう。彼はこの様に言ながらも又戸口を見た。未だ誰か来るのだろうか。
 翁は自分の身の危険を悟った。立って幾足か退いて、壁を背にし、容易ならない顔色で部屋中を見廻した。此の時又二人の逞しい破落戸が此の部屋に入って来た。是を見て長鳥はもう好しと思ったか、忽(たちま)ち人を強請(ゆす)る凶漢の様を現し、

 「貴方は此の絵に見覚えが無いと言いますか。」
 白翁「思い出しません。」
 長鳥「では此の顔をご覧なさい。此の私の顔を、此の顔には見覚えが有るでしょう。よもや忘れは成さるまい。」
と怒鳴りつつ、自分の顔を白翁の前に差し付けた。

 嗚呼今までの事は全くの陥穽(落し穴)で有った。



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