巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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美人の獄 (金櫻堂、今古堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ作   黒岩涙香、丸亭素人 共訳  トシ 口語訳

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美人の獄   黒岩涙香、丸亭素人  共訳

  

            第七回

 逃げ出して私は何所と言う当ても無く、唯足に任せて走りましたが、漸(や)っと気が付いて踏み留まって見ると、家から十四、五町(約百五十m)も離れた牧場の垣の傍まで行って居ました。何(いず)れにしても、梅林が立ち去るまで家へは帰られないと、牧場の草などを引いて時を費やし、時分を見計らって除々(しずしず)と帰りますと、伯母が玄関に立って居て、いきなりに私を抱き、
 「雪や本当に有難い、お蔭で阿父(おとう)さんも私も助かりました。本当に有難いよ。もうもうお前にはお礼の言い様が有りません。」
と暫(しばら)くの間は抱いた手を弛めません。私は合点が行かず、

 「オヤ伯母さん何(ど)うしました。何がその様に有難いので御座いますか。」
 「イエ本当に本当に有難いよ。阿父さんには、お前から話させてお喜ばせ申うそうと思って、未だ知らせてない。本当に有難い。全くお前のお陰だよ。」
 「だって伯母さん、何の事だか私には分かりませんが。」
 「アレ、分からないと言う事が有る者か。お仮忘(とぼけ)で無い。もう梅林さんから残らず聞きましたよ。お前が婚礼を承知したって。」

 「オヤ伯母さん、梅林さんがその様な事言いましたか。」
 「言ったともね。梅林さんも嬉しくて成らないから、一寸の間も話さずに我慢して居る事が出来ないワね。本当に有難い。余り有難過ぎて、夢では無いかと思いますよ。けれどナニ無理は無いのサ、お前がこの通り美しいのだもの、天子様でもこの顔なら、お見初めなさる程なんだもの。」

 「オヤ伯母さん、貴女は梅林さんを好きますか。」
 「好きますとも。男も好く、気前も好く、その上家が豊かで身分も有る。アノ様な方を好かぬと言っては罰が当たります。」
 「でも私は大嫌いですよ。アノ方に婚礼する程なら死んで仕舞います。」
と云い切ました。その時伯母は青くなって来ました。その顔色は今でも忘れません。
 「お前はマア何をお言いだ。もう約束までして置いて。」

 「ナニ、約束はしませんよ。若し梅林さんが爾(そう)言ったなら、それは貴女を騙(だま)したのです。」
 「ナニお前、騙すと言う事が有る者か。故々(わざわざ)私を呼んで、夫婦約束が調(ととの)いました。喜んで戴かなければ成りませんと、嬉し相に言ったのだもの。」
 「でもそれは間違いです。梅林さんが俺の妻に成れと言う事は言いましたけれど、私は返事もせずに逃げ出して、今やっと帰って来たのです。」

 是で伯母は初めて合点が行きましたか、前の驚いた顔を止めて笑顔に成り、
 「オヤオヤ、お前が返事もせずに、それでは約束が出来たと思う筈だ。こう言う事は、発揮(はっき)りと否なら否と断らなければ、誰でも承知した者と思います。」
 「でも私は承知しません。死んでもアノ人と婚礼は出来ません。それに伯母さん、私は未だ十七では有りませんか。婚礼の事などは考えた事さえ有りませんもの。不意に言われれば吃驚(びっく)りして逃げ出すのは、当たり前です。今度梅林さんが来たなら、私は自分で断わります。」

 「だけれどマア好く考えて御覧な。是で阿父さんも私も生涯安楽に暮らされるのだよ。お前、梅林さんがこの婚礼の為に、今までの地代を許して、その上に結納として屋敷から地面を残らず阿父さんに下さって、更に年々百ポンド宛(づつ)下さると云うじゃ無いか。この様な縁談が何所に有ります。」

 「でも私はアノ人は嫌いです。愛情が無いのに夫婦に成る事は出来ません。」
 「ナニお前、愛情などは、婚礼の前から分かる者では無い。互いに婚礼して一緒に暮らす中には、自然に愛情が出て来るとした者です。お前がその様な事を言うから、私が直ぐにドレ、阿父さんに知らせて来ましょう。何(ど)れほどかお歓びなされる事だろう。」
と言って、私の引き留めるのも聴きませず、伯母は父の許へ馳せて行きました。

 間も無く父が呼びますから、私はその部屋へ行って見ますと、父も伯母と同じ様に嬉しい顔で、
 「お前は今、伯母さんに死んでも梅林の妻に成らないと言った様だけれど、この婚礼を断われば、明日から私は乞食をして、野垂れ死にをしなければならないが。」

 「ナニ阿父さん、貴方にその様な難儀は掛けません。私が稼ぎます。」
 父は毎(いつ)もと違った笑みを現し、
 「お前が稼ぐと言って、何をして稼ぐのだ。総て婚礼と言う者は、初めから互いに愛し合った同士より、嫌い合う者が返って好い。愛し合って婚礼すれば三年もする内には、争い合う様な事に成るけれど、嫌いの者は、年を経るに従い、次第に誠の愛情が出て生涯益々睦まじく暮らされる。委細の事は伯母さんに言い聞かせて有るから、伯母さんと好く話もし相談もするが好い。」

 「イエ阿父さん、三年は愚か二十年経っても私はアノ人を愛しません。」
 「併し何故その様に、アノ人を嫌うのか。私には少しも分からないが。」
 「ハイ私にも分かりません。虫が好かぬと言う者でしょう。」
と斯(こ)う言いながら父の部屋を出ましたが、実に虫が好かないと言う者です。男も好し親切でも有り、何所が嫌いか今でも自分に分かりません。この翌日又梅林が来ましたから、私は充分に断わる積もりで第一に出て行きまして、

 「梅林さん、大切なお話が有りますから、少しお顔を。」
と招きますと、梅林は顔も頽(くづ)れるほどに微笑(ほほえ)みまして、早や言葉まで慣れ慣れしく、
 「オオ嬢か、話と有らば直ぐ聞こう。」
 「イエ、その様な馴(な)れ馴れしい言葉は御免蒙(こうむ)ります。昨日貴方は婚礼の事を伯母に話したと言いますけれど、是は貴方の思い違いです。返事もせずに逃げ出したのは、私の過(あやま)ちかも知れませんが、私は余りの事で恐ろしく成ったから逃げたのです。何うしても貴方を愛する事は出来ませんから、婚礼は致しません。」

 「ヤヤそれは、」
と梅林はその顔を顰(しか)めましたが、
 「イエ、その様に驚く事は有りません。貴方は私が未だ十七の少女だと云う事を知りませんか。私は誰とも婚礼などは致しません。」
と云うと、この言葉で梅林は又その顔付きを直しまして、
 「そうですね、少女は少女でも、この梅林の為には、世界に又と無い少女だ。」
 「イエ、何と仰(おっしゃ)っても了(いけ)ません。再び婚礼の事は口にも出さない様に願います。」

 「良し良し口にも出さない事にしよう。併しこの家へは今までの通り毎日来ますから。」
とこう言いましたけれど、その言葉の調子が何と無く誠らしく思われません。何だか心の内で、
 「ナニ今少しも経つ中には、必ずと俺を愛する心が起こって来るワ。」
と頷(うなず)く様に見えました。私は益々厭(いや)だと思いました。

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