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武士道 一名「秘密袋」   (扶桑堂書店刊より)(転載禁止)

ボアゴベイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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 武士道後編 一名「秘密袋」              涙香小史 訳

               第七十三回

 ラペに噛まれて腕八は益々怒り、傍(かた)へに在る石を拾って四つ五つ続け様にラペの頭を打ったので、猛犬も之には敵せず、忽(たちま)ち逃げて茂みの陰に入り其の姿は見えなくなった。是は唯偶然の小難で腕八初め他の者もそれほど心に留めもしなかったが、非常に微妙である造化《天》の配剤にして腕八に対する天罰の端緒(いとぐち)だったとは後に至って思い知らされた。

 夫(それ)はさて置き中尉と黒兵衛とは直ちに是からの行く先を相談して、中尉自らは何処(どこ)に行くかは別に選ぶ所は無いけれど、兎に角此の南都の付近に居ては弥生の身が甚だ危(あ)ぶないので、成るべく追っ手の来(こ)無い地方に行き、静かに彼の秘密袋を開いた上で、更に薔薇(しょうび)夫人の大金の在る所へ尋ねて行き、約束通り其の金を腕八と弥生とに分かち、之を旅費として弥生を他国に落ちて行かせる事にしようと言う。

 黒兵衛も異議は無く、然らば取り敢えず、東北の方ドンジの地方へ向け出発するのが好いだろうと言う。其の仔細を問うと、此の近傍十里の中で、ドンジの辺(ほとり)ほど静かで無難な所は無く、黒兵衛自ら今迄共和政府の逮捕を逃れて隠れて居たのも其の土地の百姓家で、今も猶(な)お其の家に己の保護する梅田嬢を預けて有るので、早く其の家に行き、嬢の養育料を払う必要がある。

 其の払いを遅滞すると其の家から共和政府へ訴へられる恐れも有る為だと云う。その様な仔細があるならば無論其の地にしようと言って相談は早くも定まったので、中尉は鉄助に出発の用意を命じ、黒兵衛は又弥生嬢を呼び覚まして来ようと言って其の眠っている所に行くと、弥生は熟睡して死人の様な有様であったが、心中非常に穏やかではない所があって悪夢が絶えず往来する為でもあろうか、寝息は非常に不揃いである。

 黒「嬢様、弥生様」
と唯二声呼ぶと、長く軍営に在って、しばしば半夜の警報に枕を蹴って起きていた習いは失せず、俄破(がば)と跳ね起き、足を揃(そろ)えて立ったが、怪しむ様に四辺を見回し、
 「オオ、黒兵衛、茲(ここ)は何処(どこ)です。」

 黒「ハイ、大川の岸ですよ。長居をしては追っ手の恐れが有ります。お疲れでも有りましょうが、直ぐに是からドンジ地方へ落ちて行きませんと。」
弥生は何もかも合点して、今までの恐ろしかった事などを悉(ことごと)く思い起こし、
 「オオ爾(そう)して露人様はーーー、終に其の方にもーーー」
 黒「ハイ、私にも救う事が出来ず水底で亡くなりました。」
 弥「エエ、爾(そう)して私一人助かってーーー。」
 黒「ナニ嬢様、悲しむ事は有りません。露人様は国王の為に死んだのです。ハイ、心を曲げず死なれたのです。貴女も御自分で死ぬ時は露人様の様に立派に死にたいと心掛けなさるが肝腎です。モシ嬢様、今では此の広い世界に、勤王軍の為に戦って生き残って居るのは貴女と黒兵衛と唯二人です。せめては心掛けだけでも立派にしなければ、先に死んだ同志の人に笑われます。泣いたり悲しんだりするのでは有りません。」
と励ましながらも其の声の自ずから涙に湿るのを止めることは出来なかった。

 是から凡そ二十分を経て、一同は茲(ここ)を立った。中尉の従者鉄助の用意した馬三頭に腕八が自分と弥生の為に用意した馬二頭、五人の人を乗せるのに足りたので、馬の足の続く限り夜の明けるまで急がせて、六時過ぎる頃ドンジの入り口に着いたが、案内に立つ黒兵衛は路の面に馬の足跡が乱雑に付いているのに目を附け、気遣(きづか)わしそうに、中尉を見返り、

 「アア此の土地も最(も)う安心の場では無くなった。何でも共和政府の捜索騎隊が茲(ここ)までも入り込んだと見え、蹄鉄の跡が此の通り。百姓馬の足跡でないのは一目で分かる。」
ち言う。

 中尉も不安心の想いがある。その身は一月の賜暇(しか)を得て、南都地方に保養する名目で来ている。今若し敵軍の落人である黒兵衛弥生等と同行している事を見られたなら、最早や敵に心を寄せるの疑いを免(まぬが)れる事は出来ない。此の行(おこない)は唯武士である者の道を尽くし、約束の言葉を重んじ弥生の前途を見届けるだけの意ではあるが、今迄の来歴を知ら無い人々は、如何(どう)してこの様な事情を誠と思うだろう。

 縄「黒兵衛、何処(どこ)か人目に触れ無い間道はないだろうか。」
 黒「サア間道と云った所で、見られる通り右は海ほど広く見える大川で、左は牧場続きの草原だ。尤(もっと)も己(おれ)の目指す所がもう遠くも無いのだから、道の無い草原へ分けて入ろう。茂った草樹に我々の姿が隠れるから、幾分安心だろう。」
と言って、是からは道の無い所に入り、次第に小山の方に上ったが、凡そ一時間ほど進んで、黒兵衛は立ち留まり、

 「先ず茲(ここ)で馬を休め一同も食事を仕よう。己(おれ)は此の少し先まで徒歩で行き、自分の用事だけ済ませて来る。」
 縄「梅田嬢を預けて有る家とは此の辺か。」
 黒「直ぐ其処(そこ)だよ。己は唯養育料を払いさえすれば帰って来るから、其の上で此の樹の陰で例の秘密袋を開けば、是から先の行く土地も決まるだろう。」
と云い、早や馬を樹に繋(つな)ぎ何(いず)れへか姿を隠したが、ややあって一方の叢(くさむら)の茂った辺(ほとり)から 、喨々(りょうりょう)たる《良く通る》非常に清き声で、子供の歌う唱歌が聞こえて来たので、軍楽の外には何の趣味をも感じない縄村中尉も、境遇に動かされてか、耳を澄まし、

 「アア本当に天女の歌う様な声だ。此の田舎でこの様な唱歌を聞くとは。」
と云い、恍惚として声の来る方を眺めると、やがて叢(くさむら)から五、六頭の子羊を引き連れてゆっくりと現れ出たのは年十二、三に見受けられる非常に愛らしい少女で、白い裾の短い服を着け、手に草花などを持った様は絵にも描き難い趣がある。

 少女は此方(こなた)の人々を見て忽(たちま)ち唱歌を止め、見慣れなれない人よと怪しむ風情だったが、やがて弥生の顔を見るより、
 「オヤ、弥生さん」
と叫び、非常に懐かしそうに馳せ寄って来た。



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