巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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gankutu144

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 5.8

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

百四十四、「親子の対面」

 いよいよ永太郎は父侯爵のいる部屋に入った。実にその度胸には驚かなければ成らない。自分が侯爵の息子でもなく永太郎でもないことは許(もと)より知っている。それなのにどうして親子の対面が出来るだろう。彼はただ自分の頓智(とんち)と弁才《口のうまさ》とを頼んでいる。何本当の息子ではなくても、上手く息子らしく演技をやらかせばそれで侯爵をだます事は出来るのだと思っている。

 だましてぬくぬくと一年五十万円(現在の35億円)の所得のある皮春家の若殿となり、年にその一割即ち5万円(3億5千万円)の小使いを与えられる身分になれるのだと信じている。たとえ侯爵に見破られて、我が息子ではないと叱られたところで元々である。イヤ、明日にも自殺する以外はないほどの境遇に迫っていた今までの事を思い合わせれば、旅費2千円の使い残りがまだいくらか懐に有るだけも元々よりは増しである。

 立派な着物や立派なステッキなどの身に残るだけでも元々とは雲泥の相違である。何の恐れるところがあるものかと、このように腹の底をすえてはいるが、しかし何しろ重大な面会だから、なるべくは慎重にやらなければならないという積もりで、部屋に入るや否や、先ず内から戸を閉めて、その後に父侯爵の方に向かって進んだ。

 しかしずうずうしい点から言えば、父侯爵も決して永太郎に引けは取らない。自分が現に侯爵ではないことを知っていて、侯爵の顔をして待っているのだ。その心の中で考えているところは大抵永太郎と同じようだ。誠にこのような奇妙な面会は芝居にも小説にも無いだろう。世の中にはなお更無い。

 永太郎は先ず、ぎこちなくこわばったように控えている父の顔を覗くように見た。何しろ智慧の逞(たくま)しい青年とは既に読者も分っている通りだから、もし普段ならばその鋭い眼力で本物の侯爵ではないと見破ったかもしれない。けれど、今は心にそれだけのゆとりが無い。ただ自分が贋物と見破られては成らないと言う用心に固まっているのだ。

 彼は覗くように中腰になり、額だけを前に突き出して、一足一足躓(つまづ)くように進み、余り高くない声で「お父さん、お父さん、貴方が本当に父上で有らせられますか。」と聞いた。実は彼、なるべくは先ず父の声を聞いて、できることならば自分の声をその声に似させたいのだから、自分の真の音声を隠しているのだ。彼は急ごしらえの父に似させるという事は出来ないからせめて声だけでも似させて置きたい。中々用意は綿密と言うべきだ。

 父はがっくりこの方に向き「オオ、息子、息子、お前が本当の永太郎か。」父の声も余り高くは無い。これは何しろ初めての檜舞台とも言うべきものだから、少しなれて心の落ち着くまで十分の技量を振るうことが出来にくいのだと見える。

 永太郎;「お懐かしゅうございました。」
 父;「懐かしかった。」
 永太郎;「五歳の時からお別れ申したまま」
 父;「オオ、五歳の時に別れたまま」
 永太郎;「気にかからない日とは有りませんでしたのに」
 父;「オオ、気にかからない日は無かったのに。」

 何だかオウムと話しているようだ。こちらの言う事が直ぐ向こうから響いてくる。
 息子;「お探し申す当ても有りませんでした。」
 父;「探す当ても無くてなあ」
 永太郎;「恐れ入りますが、お父さんーーー」
 父;「気の毒だが永太郎」
 永太郎;「幼い頃抱きしめてくださったように、どうかお膝に」 父;「オオ、幼い頃抱かれたようにどうかこの膝に」
 永太郎;「ただ一度」
 父;「ただ一度」
 息子;「抱いて私を安心させて下さいませ。」
 父;「抱かれて安心させてくれ。」

 たちまち二人は抱き合って、父の頭は息子の肩に、息子の頭は父の肩に、全く芝居でするような様子とはなった。けれど、有りのままに言えば、本当の役者がするほどは上手くはなかった。
 この時までは双方ともに、自分の方は贋物でも確かに相手は本物だと思っていた。ところが何だか様子が違う。

 抱いてみても抱かれてみても、父が抱くような抱き方ではなく、子が抱かれるような抱かれ方では無い。天然自然に誠の懐かしさが血管に鼓動するように伯爵は言ったけれど、少しもそのような鼓動らしい様子が向こうに無い。向こうもこちらも同じ出来合いの役者だろうか。しかしまだ、「まさかに」と言う思いがある為に、双方とも余ほど永い間抱き合っていたが、疑いは永太郎の方が強かったらしい。先ず彼のほうから手を解いて離れてしまった。

 それでもまだ十分に大事を取っている。彼は恭(うやうや)しい態度で父に向かい、「私の身分を証明するような、何か書類でもお渡し下されましょうか。」
 彼は手紙にあった船乗新八の指図を忘れていない。父も巌窟島(いわやじま)伯爵の指図を忘れては居ない。「オオ、その書類はここにある。これを見なさい。」と言って、先ほど渡された書類を差し出した。

 どうもその差し出すまでの様子さえ真に迫っては居ない。こっちの部屋から覗いている伯爵はこの後がどうなることかと、半ば心配そうに、半ば楽しそうに益々息を凝らした。

第百四十四終わり
次(百四十五)

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