巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu239

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 8.11

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百三十九回、『段倉家』(五)

 伯爵の話はこれでほぼ一段落を告げた。今夜蛭峰大検事の来ない理由が先ず分かった。段倉夫人は直ぐ立ち、蛭峰夫人に連れられて調印台に進んだ。
 段倉は更に気に掛かるところが有ると見え、小さな声で伯爵に向かい、「ですが、その殺された奴の名はなんと言います。」
 伯爵は良くは記憶していない様子で、「何だか変な名でした。そうそう確か毛太郎次と言いました。今まで既に懲役に行ったことの有る奴だそうです。」

 段倉の顔は少しだけれど又青くなった。伯爵はこの時辺りを見回して、初めて気が付いたように、「イヤ、つまらない話をして皆様のお耳を汚(けが)しました。こうまで皆様が熱心に聴いているとは思いませんでした。」と詫(わ)びるのも無理は無い。全く満堂の客が声を潜(ひそ)めて伯爵の話に聞き入っていたのだ。

 その中に調印の式は進み、段倉夫人は再び座に帰り、更に公証人の「小侯爵、皮春永太郎君」と呼び立てる声が聞こえた。調印は彼の番である。
 「小侯爵」、「小侯爵」、「オヤ、小侯爵は何処に」と客は口々にどうしたのだろうと思い問うた。今まで確かにこの辺に居た小侯爵の姿が見えない。客の中の少年紳士は小侯爵と隔てなく交わっているのを自慢として、「永ちゃん、永ちゃん」と略称をさえ呼び立てた。

 段倉は眉を顰(ひそ)めて立ち上がり、「小侯爵は何処にお出でなさったのでしょう。調印の順番が来たから及び申せ。」と係りのものに言い、その語調でもってひたすら小侯爵が深く尊敬せられるべき人であるのを示した。

 この時たちまち客の群れは、入り口に近い辺から人波を打って騒ぎ始めた。ツイ今まで伯爵の話に聞き入って静まりかえっていた状況とは全くの違いである。何の為、何事と、奥の方にいた人々は怪しみあった。けれど、詳細は分からない。いずれも足を爪先立って人の頭の上から、入り口を見ようとした。決してただ事ではない。

 火事か、喧嘩か、イヤその様なこともこの厳重な席であるはずがない。「何だ。何だ。」の声は波のように八方に広がった。
 しかし、長く怪しむ間は無かった。詳細はやがて人々に良く分かった。この婚礼の席に捕り手が踏み込んだのである。中々もって昔マルセイユで団友太郎という者の婚礼の席に捕り手が入り込んだ時のような騒ぎどころではない。その百倍、千倍にも及ぶのだ。

 第一、第二、第三の客間の入り口には番兵が立ちふさがって、騒ぐ客を騒がせない。厳重に出入りを止めた。この番兵を指揮するのは捕り手の長である。たすきのような胸掛を肩から斜めにかけて法律の威を光らせている。その下に使われている幾人かの捕り手は、誰でも逃げるものは容赦なく捕えるぞとの、剣幕を示して、鋭い目を客の顔に配っている。騒ぎは深い深い、暗い暗い恐れとなって客一同の胸中に満ち渡り、満堂寂然と静かになって、あたかも歌舞音楽の場が焼け跡となったようである。

 捕り手の長は闊歩(かっぽ)《ゆったりと大股で歩くこと》して段倉のそばを進んだ。静かな中に段倉夫人の驚き叫ぶ声が劈(つんざ)く《つき破る》ごとく聞こえた。段倉自身も穏やかな顔は支え得ない。落ち着かない良心から落ち着かない色が顔に上るのである。

 一人段倉のそばに有って心の確かなのは巌窟島伯爵である。伯爵は少し腹立たしそうに立って、咎(とが)めるように捕吏(ほり)に向かい、「何の為にこの席に闖入(ちんにゅう)《突然入り込むこと》します。」捕り手はこれには応えず、単に、「小侯爵皮春永太郎という人はここに居ますか。」

 今も今、客が日頃その人との親しさを誇り、見せびらかせるほどにした、その皮春永太郎が捕吏の目的とはなっている。これほどの椿事がまたとあるだろうか。客一同は神経が麻痺してしばらくは何事をも考えることが出来ないほどになった。そのうちに捕吏は手を分けて探し、又探した。けれど永太郎の姿は見つけられない。

 ややあって段倉は恐れ恐れ聞いた。「皮春永太郎は何者です。」 捕吏;「重懲役の刑期中にツーロンの獄から逃亡した脱獄牢人です。」
 アア、牢破り、牢破り、この恐ろしい名が客一同の胸仁浸み込んだ。
 「エエッ、脱獄人、重懲役、その罪で捕縛されるのですか。」と段倉は我知らず聞いた。

 捕吏;「イヤ、今夜捕縛されるのは新たな犯罪のためです。」
 段倉;「新たな犯罪」
 捕吏;「ハイ、殺人罪です。彼と共に脱牢した毛太郎次という者が先夜巌窟島伯爵の屋敷に忍び込んだ時、永太郎は外に待ち伏せしていて、その出てくるところを刺し殺したのです。」

 巌窟島伯爵は目早く客全体を見回したが、永太郎は早や逃げ去った後である。捕り手の手配りが遅かったのか、イヤ永太郎の逃げ方が早かったのだ。流石に脱獄者の手際である。

第二百三十九回 終わり
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