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巌窟王
アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2011. 8.27
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史外史伝 巌窟王 涙香小子訳
二百五十五、『十月五日まで』
「では十月五日まで私は自分の体を貴方に捧げて置きます。」と大尉は悄然(しょうぜん)《しょんぼり》として繰り返した。十月の五日といえば今から一カ月の後である。その日に到りどのようなことがあるかは、神より他に、いや神と巌窟島伯爵とより他に知るものは無い。
伯爵は大尉の言葉の後に付き、「では、今日から貴方は私の家に来て同居しなさい。」
大尉;「エ、貴方と同居を。」
伯爵;「ハイ、既に一身を私に捧げたからには何も言い分は無いでしょう。」
大尉;「それはそうです。」と言ってただ伯爵の言うがままに任そうとする様子なのは、全く何もかもこの世の望みを絶ったためである。
伯爵;「幸い私の家には、今まで鞆絵姫が居た部屋が開いていますから。」
大尉;「オヤ、鞆絵姫はどこかに行きましたか。」
伯爵;「ハイ、野西将軍の事件以来、毎日のように新聞や雑誌に名を出されますので、それが辛いと言い、私より先にこの国を立ち去りました。そうして旅先で、私が行くのを待っているのです。」 大尉;「ではいよいよ貴方がこの国を立ち去るのも遠くは有りませんね。」
伯爵;「そうです。遅くても十月五日前です。貴方をも連れて立ち去るのです。」
話はこれで決まった。そうして大尉はいよいよ巌窟島伯爵の家に同居した。
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「富と恥」
パリーの中でも極静かと言われる町外れのドブレー街に小さい一軒の下宿屋がある。このほどここの一室を借りて身を落ち着けたのは、野西武之助とその母露子夫人である。二人はこの様な所ならば、到底パリーの中心に住む知人などに認められるはずはないと思っている。けれど必ずしもそうではない。パリーの中央にもやはり一目を厭(いと)う《嫌う》用向きのためにわざわざ淋しい場所を求めてくる人がある。その様な人同士が、思わずも出会って、「オヤ、貴方はどうしてこの様なところへ」「イヤ、貴方こそどうして、」と互いにきまりの悪い思いで、顔を見合わせて驚き合う例は時々ある。
それとこれとは事が違うけれど、この同じ家の別な一室に余ほど以前から借り切って、時々密会する男女がある。女は勿論ベールで少しも顔を見せないようにしているが、男の顔もこの家の人は見たことが無い。寒い時は外套の襟を鼻の上まで締め上げ、暑い時は戸口へ来るやいなや大きなハンカチで鼻をかむ、それで顔を見せずに通る。余ほどその手際が慣れたものだ。今日もこの人はハンカチを顔の真ん中に当てて入って来たがしばらくするとベールの婦人が来た。二人部屋の中に入って初めて剥き出した顔は、段倉夫人と内閣官房長という出部嶺である。
この二人の間柄は既に記した所で読む人は知っているだろう。
出部嶺はまず無遠慮に、「昨夜出奔したそうですね、段倉氏が。」
夫人;「私へ宛ててこの様な手紙を残して有りました。」
差し出すのを出部嶺は読み下した。
「天晴れ貞女なる妻よ。最早夫婦と言う空な名のために互いにうるさく思い合うには及ばないこととなった。私は明日慈善協会の五百万を払うことが出来ないため、御身をも家をも捨てて出奔する。幸い御身には、他に頼りとする人があるため、私はこの場に臨んで御身の事を心配するに及ばない。これだけが日頃不和なりし賜物である。御身がその人と結び合い、私にかまわず巧みに商法して、後々困らないだけの資本を作ることができたことは御身がこの数ヶ月間の段倉銀行の負債が数千万に登ったことを知ったように、私もはっきりと知っているところだ。勿論私はその金を貴方に借りようとは言わず、男らしく別れるものである。貴方が私の妻になった時は、富と恥とを持って私の家に来た。今別れる時も、富と恥を残すので元々である。この上は益々自由に何人でも頼りとしなさい。今は他人の段倉喜平次」と署してある。
出部嶺はこの苦々しい文句に顔色を変えたけれど、少しの間である。直ぐにあざ笑う調子で、「この亭主知って嫌がった。」と言い、更に、「でも貴方を妻にすることは御免ですよ。」何と言うずうずうしい言葉だろう。しかし女も負けては居ない。
「私の方で真っ平です。サア、勘定して分れましょう。今までの相場の儲けで、貴方が正直に勘定してくれれば、生涯安楽に暮せます。儲けを山分けと言う約束で、資本は私が出し、相場の駆け引きは貴方がしたのですから、サア、一年間の儲けの半分と資金と、資金の利子とをお寄越しなさい。何計算は私の手帳で分かります。百三十八万フランになっています。」
精密な勘定に驚いたけれど、間違いがないのだから仕方がない。出部嶺は一万フランの銀行券百余枚出し、そうです。これだけが貴方の分です。」と言って渡した。やや有って夫人の方が先に帰った。
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『貧と誉れ』
壁一つ隔てた隣の部屋には武之助が、母の前に僅かに四百フランの金を並べて説明している。「いよいよ野西将軍の財産を慈善協会へ寄付し終わって、もうこの土地に用はないから、直ぐにマルセイユへ立ちましょう。私は兵籍に身を登記していよいよアフリカに行くことになりましたから、この通り旅費を貰って来ましたよ。この家の勘定は先ほど済ませて来ましたから、サア立ちましょう。私はマルセイユで貴方の身の落ち着くのを見届けた上、便船に乗り込みます。これだけあれば充分です。」
母は悲しいことばかりで口も開かない。開けば直ぐに涙声が止められないのだ。ただ息子の言うがままに手を引かれ、別に支度と言ってもするには及ばない今の身軽さは直ぐこの家を立ち出でた。この時あたかも顔の真ん中にハンカチを当てたあの紳士が部屋の出口に居て、様子を察した。何事にも驚かない気質だけれど、さすがに感慨を催したか、「アア、富と恥を持った婦人の後で、貧と誉れとを持った婦人が行く。世は実に様々だ。」とつぶやいた。
しかしこの紳士よりもなお深く感じた人が、町の曲がり角の辺りに潜んでいた。この人は親子が辻馬車に乗るのを見て泣かないばかりに独り言をした。「アア、罪あるその父を罰したために、罪の無い妻子をこの様な悲境に陥らせた。何とかしてこの親子には、追って相当の幸福と平安とを与えなければ成らない。それを与えることが出来なければ悪を懲(こ)らして善を勧(すす)めるという天職に背くわけだ。」この人が巌窟島伯爵であることは言うまでもない。
第二百五十五回 終わり
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