巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

gankutu268

巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2011. 9.9

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百六十八、『断末魔』 (四)

 蛭峰は伯爵を引き立てて何処へ行く積りだろう。荒々しく伯爵の手を取ってただ無性に引く様子はほとんど狂人の所為である。けれど、伯爵は逆らわない。引かれるままについて行った。
 やがて蛭峰は己が妻の部屋に至り、ただ「御覧なさい。御覧なさい。」と言って指さすのは妻の死骸及び子の死骸である。伯爵はハッと驚いた。彼の妻、彼の子まで無惨の死を遂げたとは知らなかった。

 蛭峰は又叫んだ。「これが貴方の復讐ですか。」
 今が今まで伯爵は自分が神の助けを得、神の意を奉じているとばかり思っていた。けれどこの様子を見ては神の意よりも更に一歩踏み越して、我が殺生の過ぎたことを見て取った。全く伯爵の顔色は変わった。「オオ、ここまでとは思わなかった。」叫ぶや否や部屋の中に飛び込んで重吉の死骸を抱き上げた。

 妻の方には充分の罪が有るから伯爵はその死をいたむべしとはしない。ただ息子の死に至っては全く罪の無い者にまで復讐を及ぼしたことに当たるから、どうしてもこれを蘇生させなければならないと決したごとく、慌(あわただ)しくその心臓をなで。又慌しくその瞼(まぶた)を開きなどしてなお一点でも生気の存して在るや否やを検(あらた)めたが、もう事切れ後である。

 「エエ、残念だ。手遅れとは」と、得も言われない絶望の声を発した。けれどなお捨てるには忍びないと見え、直ぐにその死骸を抱き上げ、しっかと自分の胸に添えたまま、再び弾正の隠居所に走り入った。蛭峰は伯爵が何をするのか理解できない。ただ伯爵の後に従い、同じく隠居所に入ったけれど、早や伯爵は戸を閉め切った後である。続いて入ることは出来ない。

 およそ二十分ほども経って伯爵は又も重吉の死骸を抱いたまま出て来た。「もうどうしてもこの世へ呼び返すことができないのは残念だ。」と言い、再び蛭峰夫人の部屋にその死骸を持って行き、口に祈祷を唱えながら、夫人の死骸と枕を並べてこれをベッドにの上に置き、白い布をその上に当て、「このような思いをするのも全く復讐が過ぎたのだ。」とほとんど後悔に我慢が出来ないように呟いてここを出たが、それにしても蛭峰その人は何処に行ったか影さえ見えない。

 そこここと見回すうち、隠居所に雇われてただ一人この家に残っている僕(しもべ)の姿を認めたので、直ぐにこれを手招いて、「蛭峰氏は何処に行った。」
 僕;「裏庭の方へ行かれた様です。」
 直ぐに裏庭に出てみると、蛭峰は鍬をもって芝の上を掘り返し、「重吉は何処に行った。何でもこの辺に違いない。」と口走っている。その様子、その顔、最早疑うところは無い。全く発狂したのである。

 伯爵は恐ろしさに耐えられず、身を震わせながらそばに寄り、「蛭峰さん、蛭峰さん」蛭峰は見向きもせず、「ナニ、この辺に隠れたのだ。重吉、重吉、出て来い。ヤヤ、まだ出てこないぞ。来なければ何時までもこうして掘るのだ。」声まで聞くに耐えられないほどの恐ろしい響きを帯びている。伯爵は最早踏み留まる勇気が無い。又その必要も無い。直ぐにこの家を走り出て、逃れる様に我が家に帰った。

 我が家には森江大尉ガ、一人退屈に耐えられない様にこの部屋あの部屋と経巡っている。直ぐに伯爵はこれに向かい、「今夜のうちにこのパリーを立ち去りましょう。」大尉は嬉しくも悲しくも感じない。もうこの世のことを思い断った様子である。単に「そうですか」と言い、更に又、「パリーでもうなさることは有りませんか。」と聞いた。
 伯爵;「ハイ、することはし過ぎるほどにしましたから、早く立ち去るだけです。」

   『告別』

 この日の夕方、伯爵は大尉の妹の江馬夫人の家に行って、その夫婦に別れを告げた。この他には誰に言葉を残すべき用もない。勿論夫婦が名残を惜しんだことは一通りではなかったが、それを何とか慰めて、大尉の手を引いてここを出ると、外には四頭立ての馬車が待っている。御者はかの黒人アリーである。伯爵はアリーに向かい、「先刻の手紙を老人に渡したか。」「老人は瞬(またた)きしたか。」「そのそばには春田路が介抱していたか。」など重ねて問い、アリーが一々「然り」と頷くのを見て、独り言のように「アア、老人が承知したなら安心だ。その内に春田路が安全に供をして来るだろう。」と呟き直ぐに馬に一鞭宛てた。

 馬車は矢のごとく走り始め、パリーの全市が蒼茫たる暮色の中に没する頃、早やマルセイユに行く街道に出て、ピレデフの丘の頂上に登った。ここから頭を廻(めぐ)らせると、パリーの全市は大いなるパノラマを広げたように目の下に見えるのである。伯爵は馬をとどめて車を降り立って、パリーを見返ったが、広い限りない闇の中に、星の海かと疑われるごとく千灯万灯のきらめいて、処々に火焔(ほのお)が立ち上るかと疑われるほど明るく見えるところがある。

 これに対して伯爵の胸にはどの様な感慨が起っただろう。戦に勝って凱旋する将軍が、千軍万馬に踏みにじった戦場を振り向いてみる時の心持もこのようだろうか。やや久しく無言で眺め入っていたが、ついには、「嗚呼、」と溜息して、大地に伏し、生きた人にものを言うごとく、パリーに向かって、

 「嗚呼、パリーよ、大いなるパリーよ、我神の意に導かれて、汝の巷(ちまた)に入りてより、ここに半年、今は天の使命を達して、汝に別れを告げるものなり。余が使命の何なりしやは、ただ神の知るのみなので、汝も知らない。私は汝の巷を去るに臨み、心にやましき所無しといえども、何ぞ又多少の悔恨無きをえんや。パリーよ、パリーよ。私はは深く汝の肝裏を探って得べきを得、為すべきを為し得たるも、その間に一点私欲の念の刺し挟(はさま)ざりしは、天の照覧に明らかなり。私は汝の肝裏に隠れる深き罪悪を抜き去りて、今は汝に恩怨無し。再び神に導かれて汝の巷を去るに臨、ただ汝が余の行動を妨げざりしを事を謝して告別とす。パリーよ。さらばパリーよ。さらば。」

 言葉は平らかでも心は深い。唱える声は天風に吹き散じて、大空に上って消えた。天、漠漠、夜、寂々、いずこへ再び伯爵の身は現れて出るやら。

第二百六十八回 終わり
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