巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

二百七十八、『結末』 (十)

 耐(こら)えると言って何時まで耐えられるものか。なるほど長いうちにはどのような助けが来るかも知れない。けれど、それは当てにならないこと。かえって飢えの方は寸刻の油断も無く押し寄せて来る。のみならず一刻は一刻よりも急に、明日は今日よりも必ず烈(きつ)い。

 その烈(きつ)さの増すのにつれ、段倉は疑い始めた。「鬼小僧と言うこの山洞の主人の他にまだ大将があるとは、どのような大将だろう。他の捕らわれ人は皆身請け金さえ出せば許せると言うのに、何ゆえこの身だけは身請け金を出しても許されず、この様に苦しめられるのだろう。イヤ、身請け金を出せば許してくれるけれど、その金額が五百万フラン、ナニゆえこれほどまでも高いのだろう。決してこの身はこの山賊から普通の取り扱いを受けているのではない。特別の、無類の、酷(ひど)い、酷い処分を受けている。何かその大将がこの身に対して深い恨みでも持って、復讐を企てているのかもしれない。」

 苦し紛れに大方、ことの真相に推量が届き掛けたけれど、これより上は考えることが出来ない。考えたとて到底分からない。そのうちに彼に、死ぬと言う恐ろしい観念ガ見えて来た。この様にもがいても、我慢しても、何処からも助けに来る見込みは無い。全くこのままこの穴で死ななければならないのかも知れない。飢えがこの身を冥土へせき立てる号令かも知れない。そうだ、どうも死ぬ他は道ガ無い様だ。

 誰でも死が恐ろしくない者はいない。けれど段倉のごときは、かって、武士の教育を受けたことも無く、死を軽んじるなどと言う考えは一度も起こしたことが無いから、命の惜しさは又格別である。何度彼はこの山洞から逃げ出す道は無いだろうかと考えてみたか知れない。けれどその道は決してない。地を潜(くぐ)る土龍(もぐら)とてもこの部屋の三面を囲んでいる天然の石の壁を貫いて去ることは出来ない、ただ一方だけ開いている戸口には鉄の閂(かんぬき)がはまっている上に、いかめしい番人が夜昼の区別が無い。逃げようなどとは、柔らかな指先で天然の岩石へトンネルを掘ろうと言う望みである。

 自分の心だけ飛来っている。望むだけ、自分の心を苦しめるだけ損である、ここに至って最早どうにも仕様が無い。矢張り驚くべき大金を出して食物を買うだけである。末はどうであろうとも、食わなければ直ぐに命が続かない。総身を削られるような烈(きつ)い飢えを我慢が出来ない。
 彼は真実餓鬼の有様となった。これは彼だけでない。誰でも彼と同じ境遇に立てば同じ有様は免れないのだ。

 ついに彼は食事のための百万フランまでの大金を取られてしまった。それはただ彼が鬼小僧に会ってから二日目である。全く少しくらいの食物では、かえって空腹の感じを鋭くするような場合となったのだから、この世の思い出に腹一杯食べてみたい。そうすれば後の持ちこたえがかえって容易(たやす)いだろうと、この様に思って、ほとんど未来永劫(みらいえいごう)の食いだめと言う心境で充分に食べた。本当に腹が出来た。アアこれならばもういくら飢えたとしても心はくじけないと呟いた。

 けれど、この時の飢えに耐えない人が、これよりも酷(ひど)いこの次の飢えに何で耐えることが出来るだろう。あいにく彼は胃の腑が健康だ。少し時が経つと、直ぐ腹が空く。そうしてその空き方が鋭利だ。メリメリと音がして体が萎(しな)びて行くように感じる。一度、又一度、これが本当の食い納めだと思っては、金を取られ、到頭十二日目には五百万フランをことごとく取られ、ただ五万フランだけの蓄えとなった。

 こうなるとこの五万フランが全く命より惜しい。もうこれを出したとしても一皿の食を得ることも出来ない。ここの定価に従えばただ半皿である。半皿の肉が食ったとしても何になるものか。一皿ですら非常に少なく盛って有って、腹を満たそうとするには十皿位食べなければ成らないのだもの。どうせ飢えるものならば、この五万フランだけは保存して飢えなければならない。アア、五万フラン、五万フラン、何が何でもこれだけは助けなければと、必死に五万フランを守ることになった。

 昔団友太郎が泥埠の土牢で絶望の極に達した時には、ただ自分の記憶だけを保存したいと神にに祈った。この時の段倉がほとんどそれである。彼は日頃神に祈ったことなどは無いけれど、この時ばかりは熱心に祈った。アア神よ、我をして無事にこの五万フランを保存せしめたまえと、これだけの金さえあれば、助かって世に出た時、まだ何事かの商売をすることが出来る。身を支える足場を得て、何とか足場を得て、何とか再挙の峰によじ登ることも出来よう。これが無くては無一物である。ここを出たとしても道路で飢え死ぬ他はない。即ちこの金が命である。命の尽きるまで金は捨てない。

 この決心に彼が執着した忍耐はいささか感心すべきである。悪人にもせよ、流石に貧困から身を起こしてパリー第一流の銀行家となり出ただけのことはある。頬が落ち、目がくぼんだのは勿論のこと、眩暈(めまい)がして、心も取り乱れ、ほとんど何事も考えられないほどに至ってすらも、なお五万フランのことは考えていた。この様なのが、死んでもしかと金だけを抱きしめている人なのだろう。

第二百七十八回終わり
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