巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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巌窟王

アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

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史外史伝 巌窟王    涙香小子訳

七十二、無論金件です

 階段を下りて来た緑嬢は、満十七歳になったばかりで、女子の最も可憐に見える年頃である。特に天性、清い顔立ちで、誰でも一目見れば見直さないではいられないような気がする。あの秘密書記というのも、ジッとその顔を見たのも怪しむに足りない。何のつもりも無いが目がその方に引き寄せられるように感じたのだろう。

 秘密書記を案内している小暮会計は、「嬢様、お父様はお居間でしょうね。」と聞いた。
 嬢;「多分そうでしょう。この方のお名前を伺って行ってそう申してご覧なさい。」と、何だか気兼ねそうに言うのは、可愛そうに、浮世の波風に当たった事のないこの令嬢さえ、我が家我が店のただならない不幸不運を感じ知って、自ずから訪ねて来る人毎に心配するものと見える。

 そうして嬢がこの書記の顔を見返した眼の中には、「どうか、借金のことならば父に手ひどく催促して下さらない様に」と願う心がこもっているのではないかと思われる。書記は意外に愛想の無い声で、「イヤ、初めて森江氏にお目にかかるのですから、名前を申しても分かりません。」と答えた。嬢は泣き出しそうな顔で階段を下り、江馬仁吉の居る部屋に入った。

 書記は一寸振り返るようにしたけれど、そのまま上った。そして、森江氏の居間の入り口に立った。先ず小暮の方が中に入ったが暫(しば)らくして出て来て、「サア、主人がお目にかかると申します。」と伝えた。書記が引き違いて中に入って見ると、森江氏は厚い会計簿を開いて、顔色を青くしているのは、自分の借金の口数でも調べていたものらしい。

 実に変われば変わるものである。十六年前にあの団友太郎がこの人に分かれた頃は、この人、三十六歳でまだどこにか青年の面影も残っていたが、今は五十の坂を越えた。しかし未だそう衰える年ではないけれど、頭はほとんど白髪になって、顔には深く心配の筋が刻みこまれている。全く苦労に老けたのである。

 書記の姿を見ると共に、森江氏は帳簿を閉じた。閉じる時に何だかため息が漏れたようである。そうして、静かに書記の顔を見て、「私に何かお話でもあるように、今会計から聞きましたが。」
 書記;「ハイそうです。私が何処から来たかも会計が申したでしょうネ。」何だか早や外交交渉らしい語気を帯びている。
 森江氏;「ハイ富村銀行の秘密書記と」

 書記;「その通りです。今日参りました用件は外でも有りません、勿論金の件です。」勿論金の件とは分かっている。取引銀行の書記だから勿論金の件には違いないが、それでもこの一語が胸に響く。特に言葉の調子ではなにやら厳重に談じ込まれそうだ。昔ならば人を恐れるなどと言うことは夢にも無かったが、今は何より人が恐ろしい。

 書記は語を継いで、「実は私どもの銀行が、このたびおびただしい金額を当国で支払わなければ成らないので、前から支払い確実で有名な貴方のお店から出た手形を少なからず引き取りました。勿論期限が来ればお払いくださるに決まっていますけれど、同業のよしみで、一応お知らせ申して置くべきかと思いまして。」

 森江氏;「ハア、私共の振り出した手形を」
 書記;「ハイ、随分沢山持っています。」森江氏は病人が医師に向かいその病名を尋ねるように恐々(こわごは)「それで沢山とはどれほどです。」

 書記は無言で先ず取り出したのは、監獄総長から買い取った二十万の債券である。そうして森江氏が見終わるのを待ち、冷ややかに「御承知でしょうネ。」
 森江氏;「ハイ、確かにこれだけの金額を総長から預かっています。」
 書記;「何時お支払いです。」
 森江氏;「半分は今月の末、半分は来月の末」

 何気なく言う積もりではあろうが、森江氏の声は震えている。
 書記;「外にまだ、小口ですが今月の十五日期限の手形が少しばかりあります。これは全体でわずかに3万五千円ばかりですが、兎も角、貴方の記名となっていますので。」と言い又差し出した。

 森江氏はこれを見て、「確かに私の記名です、」言いながらも、今まではどの様な担保よりも確かだと尊重された森江良造の記名が、ここで始めて不払いの汚名に陥る時が来たかと思うと、身を切られる思いもするだろう。無理にその思いを隠して、「全てで是(これ)だけですか。」

 書記;「イヤまだ有ります。来月の十日支払いの分と、二十日支払いの分が」と言い、又二通取り出した。是は森江氏が当地の取引先、ワイルドと言う商店とパスカルと言う商人とに宛てて振り出したものである、双方とも十万円の上である。書記は念を押すように、「初めのをも合わせて、全体で四十八満三千二百五十円(現在の17億3970万円)です。」
 森江氏は「四十八万三千二百五十円」と機械的に繰り返した。

 書記は容赦も無く、青ざめている森江氏の顔を鋭く見つめて、「極打ち明けて申しますが、勿論貴方の信用を疑うわけでは有りませんが、しかしーー」
 しかしと言って更に言葉に重みを付け、「当地の人の説を聞きますと、貴方が是だけの支払いには応じることは出来ない様にも言いますが。」

 全く森江氏の顔色は土の様である。と言って自分の名に対して屈しては居られない場合である。ほとんど必死の力を絞り集めたような声で、「私の父が頭取であった三十五年間と、私がその後を継いでからからの二十五年間合わせて今日まで六十年の間、一度でも信用を疑われた事のない森江商会です。」と、どうやら言い切るには言い切った。

第七十二終わり
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