巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第六十二回 栄三の絶望
 
 遺言書を持ったまま門苫取(モンマルトル)の丘の下に埋められた彼のお梅は、穴の天井が頽(くず)れた為め、槇四郎、角三、その他の人々と共に、更に深く埋められ、今は到底掘り出されることが叶わない身とはなった。だから銀行頭取上田栄三も、之を天の裁判と断念(あきらめ)て帰り去ったが、情ある者誰が之が為に泣かない者があろうか。

 此の翌日午後三時頃の事であるが、栄三は唯独り己が居間と定めてある銀行の事務室に座し、腕を拱(こまね)いて思案に沈んだ。その顔色を見る時は殆ど別人かと疑われる。閃々(せんせん)として人を射た眼の光も、今は全く曇り果て、頬に現れた活発な血の色も何時の間に褪めてしまったか、宛も土の色を帯ぶ。

 昔の人は苦労の為め一夜にして頭髪全く白毛(しらが)となったと聞けど、栄三はそれにも増し、一夜の中に十年ほど老(ふ)けて見えた。それも無理は無い。今までは如何にかして銀行を盛り返そうと、その心を張詰めていたが、昨夜の一条よりして、その望みが全く絶え、此の上は唯破産を待つのみの不仕合(不幸)せとは為った。

 無理の上に無理を尽くして、ここまでは漕いで来たが、今月と云う今月は越すに越されない関所がある。晦日を限りに店の戸を閉じなければならない。己れ一身は乞食をするも苦しくはないが、荒い風にも当てずに、永の年月育て上げた瀬浪を、如何にしたら好いだろう。

 昨夜家に帰ってから唯嬢が事をのみ考え明かし、今もまだ嬢の事を案じて過ごしている。この様な苦労も、我が身がなせる罪の報いと思えば、恨みもせず咎めもせず従容(しょうよう)《ゆったりとして落ち着いて居る様子》として天の裁判に任せるばかりだが、だからと言って清浄な娘にまで、我が為めに苦労を掛けるのは、親の身として我慢が出来ようか。

 打ち案じ打ち嘆えた末え、漸くにして此の後の行く道を決めた。灰一握り残らぬまで我財産を振るい尽くして、ことごとく債主の手に渡し、その後で友人町川友介から少しばかりの旅費を借り、米国に引き移ろう。

 人既に五十と云う坂を過ぎて、再び財産を起こすのは、非常に難しいけれど、米国(アメリカ)はその国も新にして、仕事も多い所なので、骨身を砕いて稼ぐに於いては、嬢一人を安楽に暮らさせる事の叶わない筈はない。

 それに就けても気に成るのは柳條健児が事であるが、彼既に秘密党の一員である長谷川の自首に依り、その筋から秘密党と見做(みな)される時は、我が力で救う事は出来ない。それに引き替え、唯だ決闘の罪ならば遠からず放免されるだろう。その放免が若し今月の中にあれば、共々に米国に渡るとし、それが出来なければ、委細を町川に頼んで置き、我が後を追って来る事とするも好し。

 それ等は彼の随意に任せると、栄三の心は百端に走り、迷って取り留める方法もない。この様な中にも、唯だ一つ安心なのは、明日馬平侯爵に返すべき大金である。此の金を返し終われば、銀行は翌日から営業すべき資本を失うなうが、それは固より覚悟の前。唯だ我が平生より憎しと思う貴族の一人に、辱められないのが攻めてもの幸いである。

 ハブル港の同業に返すべき筈の金を、同業には来る二十五日までその期限を延べて貰らって、会計局に積み立ててある。明日侯爵が来たら彼の生白い顔に、その金を叩き附け、

 「平民とて侮(あなど)る勿れ、平民は正直なり。我が財産を潰(つぶ)しても、借りた金は期限を違えない。金を以って情なき女を妻にしようとする様な、汚らわしい心の貴族とは大違いである。」
と充分に罵(ののし)ってやると、一人呟(つぶや)いて頷首(うなず)くと、顔に非常に沈んだ笑みが浮かんだ。

 この様な折しも、入口の戸を突然(だしぬけ)に押し開いて顔ばかり突き出し、恐る恐る主人の顔を眺めるのは、此の銀行の会計役である。栄三ははたと睨んで、
 「何だ、何用だ。」
と厳しく問う。

 會「ハイ払い出しの事で一寸と。」
 栄「ナニ払い出し。」
 會「ハイ、ハブル港の同業へ、先刻十三万五千法(フラン)を払い渡しましたので。その事をお知らせに。」

 早や同業に払ったと聞いて、栄三は非常に青い顔を白くして打ち驚いた。此の金は是れぞ是れ、明日馬平侯爵の顔に叩き附けようと、今しも自ら慰めた金なのに、その心を知らずして同業に払ったとは何事ぞ。栄三は火っと怒ると共に、我知らず、
 「太い奴だ。」
と叱り声を発した。

 会計は何時にない栄三の剣幕に、返すべき言葉も知らない。栄三は自らが言葉の荒々しさに驚いて、忽ちその声を柔(和)らげつ、
 「ハブル港の同業へは二十五日まで待って呉れと手紙を遣ったが、それだのに今日受け取りに来たとは合点が行かぬ。」

 會「イヤ先刻その手紙の返事が来て、至急の入用ゆえ待つ事が出来ないと有りました。この返事をお目に掛けようと思いましたが、生憎貴方がご不在で、それに、
 「払い出しを見合わせ。」
と云う御指図もありませんでしたから。」
と最もな弁解に栄三も会計の過ちでは無くして、却って己の手落ちである事に気付き、苦い声で、

 「好し好し」
と言って会計を退けた。その後に栄三は自ら失望の声を制し兼ね、 
 「エエ、是でもう運の尽きだ。仮令(たと)え閉店する迄も、恥知らずとは云われない様にしよう。他人に赤面しないようにしようと思い、今まで心を苦しめたのも水の泡だ。

 昨夜門苫取(モンマルトル)の丘の下で、遺言書は取り出せないと悟った時、是が天の罰だと思い、町川にも爾(そう)云ったが、アレは未だ罰ではなく、誠の罰は是から此の身に降り下るのだ。エエ、是から。」
と両の手を握り詰め、歯を食ひ〆て涙に光る両眼を、裂けるばかりに見開いた心の中は、如何なだろう。

 国王を屠(ふぉふ)り、外人を攘(はらわ)んと誓った秘密党大首領の、一世の苦しみを思い遣るのさえ勿々(なかなか)である。《簡単では無い》

 良(やや)あって栄三はその目を閉じ、その手を弛めて後ろの椅子に摚と身を投げたのは、失望極まって絶息したかと疑われる。だが彼れは絶息したのでは無い。まだ息は通って居る。虫の息で良(やや)久しく自分の心を押し鎮める様子であったが、やがて思案が定まったのか、

 「好し」
と一言決然たる声を発し、非常に静かに起き上がったが、その顔色は全く変わり、活きている人とは思われない。彼は実に死を決したのだ。自殺する外、明日の辱しめを逃れるべき道なしと決心したのだ。嗚呼自殺ー。

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