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活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第六十四回 筒の中に遺言書
 
  栄三は清廉潔白な男子である。我が身の貧苦は忍ぶ事が出来るが、身の恥は忍ぶ事が出来ない。馬平侯爵に返すべき大金が準備出来なくて之を返せなくなり、非常に我が身の恥じとなるのを知り、その恥じを逃れる為め、終に自殺しようと決心した。

 彼れは貧苦を恐れてたのではない。唯恥じを恐れたのだ。貧苦を恐れて恥を恐れず、貧苦の為めに恥ずかしい行いを為す世の不潔な人々と、日を同じくして語るべきでは無い。それで彼れは商用の為め、英国に行くと云って、余所ながら娘に暇乞いをし、それから我が部屋に籠り、翌朝の四時頃まで幾通かの遺言書を認めた。

 その中には銀行の始末方を会計に指図したのもあり、瀬浪嬢と柳條が事などを町川に頼んだのもある。是で用意は全く整った。
 銀行の店を開くのは毎日午前九時で、それまでには猶未だ四、五時間の猶予がある。此の間に切めて巴里の見納めに、近辺を散歩しようと秘かに我が家を忍び出て、徐々(そろそろ)と近廻りの町々を散歩した。

 固より朝四時頃の事なので、どの町も往来に人が絶えて、静かなことは云う迄もない。歩みながら我が身の今までの事を考えて見ると、宛も長い夢の様だ。あれこれ考えた後、我が身の今後の事に到ったが、一として涙の種にならないことは無いけれど、泣いても今更何にもならない事である。

 死に顔に涙の痕を留めるのは男の恥とするところ、快く打ち笑って泰然と死に就いた事を知らせるのが一番だと、強いて自ら顔を柔げた。その苦しみは何んなだろう。この様にするうちに六時を過ぎ往来(ゆきか)う人が稍々(やや)繁く成ったので、最早や散歩も是までだと、又も我が家へ忍び帰って、再び我が居間に入った。

 壁には一昨夜、町川友介と共に腰に着けて、門苫取(モンマルトル)に行った彼の二挺の短銃がある。是こそ我命を托する道具と思い、静かに取り来たって検めると、雨中を冒して運んだためか、火薬、筒口、皆湿って、物の役に立たない。

 そこで長釼(サーベル)に伏して自殺しようかと思ったが、此の時フと心に浮かんだのは、兼ねて我が抽斗に仕舞ってある、二挺の短銃である。此の二挺は哀れむべき彼のお梅が持っていた者である。

 老白狐と間違えて、お梅を穴の中に連れて来た時、捕り手の者が大首領に渡した者を、その儘(まま)持ち帰って、卓子(テーブル)の中に納め、その後銀行の到底成り行かないのを悟った頃、初めて自殺の念を起こし、取りだして検めて居たら、その時彼の柳條健児が瀬浪嬢との婚礼を乞いに来たたため、再び卓子(テーブル)に納めたままであった。

 我れお梅を殺した代わりに、お梅の短銃を以って我が身を殺す、これ又罪亡ぼしの一端に違いない。斯(ようや)く思って卓子(テーブル)を開くと、二挺とも未だその時のままに在った。一挺は女持ちで小型なので、我が短銃の丸(たま)は之に合わない。残る男持ちの一挺こそと取り上げてその引き鐡(がね)を試し見ると、未だ錆もせず、挙げ下ろしは甚だ爽やかである。

 是だと頷(うなず)いて、更に我が丸(玉)を取り、之に合せると一厘一毛の違いも無い。彼(あ)の時此の短銃を持って帰ったのは、今日この様に自殺する前兆だったかと、非常に沈んだ笑みを浮かべた。

 此の上用意する事も無い。イザ死のうと安倚台(あんきだい)《ソファー》に身を置いて、両目を閉じて短銃を喉に当てたが、今は家内の者も悉(ことごと)く起き出した時分なので、一発で死ななければ、死に後れる事とも成るに違いない。永く用いていない短銃が、万一何処かに具合の悪い所があって、火の移らない事でもあったら、徒らに死に恥じを晒す事になってしまうと、臨終の際にもまだ心の届かない所が無い。

 更に眼を開いて、筒の穴を覗き見ると、怪しやその中に細く巻いた紙切が詰め込んであった。
 「ソレ見たか。此のまま遣れば、死に損なう所であった。」
と打ち呟(つぶや)き、先ず此の穴を掃除しなければと、掃除の道具を取って、穴の中を攫(さら)おうとする。

 「フムお梅は短銃の手入れなど充分に知らないから、紙を詰めなければ錆びるとでも思ったのか。」
とその紙切れを引き出すと、アア是れこそは尋常(ただ)の紙切れではなかった。棒の様に巻き詰めた者で、何かの書付らしく見えるので、栄三は丁寧に之を伸ばし初めた。

 長く巻いたままなので、伸ばすに従い、又跳ね返って自ずから巻き上がったが、中に書いてある荒々しい文字がその度に散々(ちらちら)と見えたので、栄三は難船の乗客が、遥かに水平線の辺に救い船を見る心地がし、両手に取ってその紙を卓子(テーブル)の上に披(ひら)き、文鎮を載せて之を読むと、是こそ今まで尋ねに尋ねた、古澤中佐の遺言書である。

その文、

 余は手傷を負い、今将(まさ)に露国の病院で死のうとしているが、幸い心は未だ確かなので、ここに遺言書を認めて余の財産の処分法を定める。余が財産は公証人の公証で明らかな様に、今現に公証人の管理に在る。総額二百四十万法(フラン)である。余は此の総額を余の妻の甥に当たる、柳條健児に譲る者である。但し此の遺言書は今現に余を看病している今井兼女に托するので、兼女から柳條に渡すべし。柳條は此の財産の中から、年々兼女に五千法を給すべし。」
とある。

 書式も総て法に叶って居る。是にて見れば、お梅は大事の上にも大事を取り、遺言書を短銃の穴の中に納めて置いたのだ。お梅は岡の下に埋ったが、遺言書だけは栄三の手で助かって居たのだ。此の様な事とは知らずに、今まで捜した愚かさよ。しかしながら栄三は之が為め自殺の決心を翻(ひるがえ)さなかった。

 「アア今まで柳條に非常な損失を掛けたと思い、そればかり気に掛かったが、之でその損失だけは助かった。柳條も充分な財産が出来れば、瀬浪と共に幸福にこの世を送れる。俺も先ず安心して自殺が出来る。」
と初めて真に嬉しそうな笑顔を作った。

 是から此の遺言書を町川友介に托して置こうと、先に町川に宛てて認めた書置きの封を開き、之に一行書き認めて、その中に封じ込み、
 「サア之で用事は済んだ。」
と再び自殺の覚悟に掛かり、安倚台(あんきだい)《ソファ》に凭(よ)り掛かると、此の時壁に懸けてある時計は、早や九時を報じた。九時は銀行の営業時間なので、俄かに四辺も騒々しく聞こえたので、
 「早くしなければ仕損じる。」
と云いつつ、短銃を喉に当て、今や引き鐡(がね)を落とそうとすると、折しも軽く入口の戸を叩く者があった。是れはきっと娘瀬浪に違いないと思ったので、栄三は、
 「折りが悪い、瀬浪に死ぬ所を見せるのは、好ましくない。」
と何気なく立ち上がって、内からその戸をソッと開(あけ)ると、これは如何したことか、瀬浪では無くて馬平侯爵であった。

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